魏国の寡婦



こんな面白そうな話を教えてもらえたので、よくやってるようにネタにさせてもらう。



魏略曰、初(杜)畿在(河東)郡、被書録寡婦。是時他郡或有已自相配嫁、依書皆録奪、啼哭道路。畿但取寡者、故所送少。及趙儼代畿而所送多。文帝問畿「前君所送何少、今何多也?」畿對曰「臣前所録皆亡者妻、今儼送生人婦也。」帝及左右顧而失色。
(『三国志』巻十六、杜畿伝注引『魏略』)

長年河東郡の太守を務めた杜畿。彼の元に、「寡婦名簿を提出しろ」という命が下った。



これはどうやら河東郡だけではなかったようで、他の郡では寡婦だけではなく夫のいる女性をも寡婦として名簿に記し、彼女を夫や子から奪うような真似をしていたようだが、杜畿はそんなことをせず、本当に夫のいない女性だけを名簿に載せた。


そのため、名簿に載る人数が少なかったという。




おそらく、これはただ名簿にするだけではなく、「道にまで引き離されて泣き叫ぶ声がした」という記述が示すように、「寡婦」を献上するために強制的に連行するものであったと考えられる。
そのための名簿を出す、ということだろう。




河東郡といえば、曹操が封建された魏公国の領土の一部である。


つまりこれは曹操の命である。


自分の後宮に入れるためなのか、兵戸の兵たちと強制結婚させるためなのかはここからは良くわからない。恒常的なものだったようなので、後者かもしれない。



一応は寄る辺ない寡婦を救おうという高尚な精神の表れでもあるのかもしれない。



ただ、ノルマがあったのか、それとも人数を多くして曹操の覚えを良くしたかったのか、とにかく各郡は「寡婦」と言いながら結婚して夫のいる人間を無理やり引き裂いていたというのである。





その後、曹丕の時代になって杜畿は尚書となって曹丕の側に行き、代わって趙儼が河東太守となった。



この時も寡婦献上の命があったらしいが、杜畿の時はやたら少なかった河東郡寡婦が、趙儼が献上する「寡婦」はやたら多かったということのようだ。



いぶかしんだ曹丕は「これどういうことよ?」と杜畿を問いただしたが、「私は本物の寡婦だけを献上していましたが、趙儼の野郎は夫がいる人間を引き裂いて「寡婦」にして送ってきてやがるんですよ」と非道な事実を暴露したため、曹丕と側近は顔面蒼白となったという。




まあ、これが事実であれば皇帝即位前後の時期にこんな非道な行いが露見したということなので、蒼白にもなるだろう。