京兆三休

典略曰、(金)元休名尚、京兆人也。尚與同郡韋休甫・第五文休倶著名、號為三休。尚、獻帝初為兗州刺史、東之郡、而太祖已臨兗州。尚南依袁術。術僭號、欲以尚為太尉、不敢顯言、私使人諷之、尚無屈意、術亦不敢彊也。建安初、尚逃還、為術所害。其後尚喪與太傅馬日磾喪倶至京師、天子嘉尚忠烈、為之咨嗟、詔百官弔祭、拜子瑋郎中、而日磾不與焉。
(『三国志』巻七、呂布伝注引『典略』)

上計掾杜陵韋端字甫休、至涼州牧、太尉。同郡齊名、時人謂之京兆三休、并以光武元年*1察擧。
(『三輔決録』)

「休甫」と「甫休」という違いなどがあるが、どうやら『典略』に記されていることは下の『三輔決録』の記事と同じ内容であろう。




つまり後漢涼州牧の韋端は字「休甫」であったことと、曹操に阻まれた正当な兗州刺史の金尚は「三休」と並び称される存在だったということである。





これは推測になるが、李傕時代に曹操のところへ刺史として送られた金尚と並び称されるということは、韋端もほぼ同世代であろう。


官位も彼だけが突出して既に牧になっていたとは考えにくい。




となると、韋端は金尚と前後して涼州に刺史として送り込まれたと考えるとすっきりしてくる。




その後、涼州をまともに統治したことでどこかの段階で牧を与えられた、というところだろうか。




*1:「太尉」と「光武元年」は何かの誤りではないかと思われる。