陳王寵の祈り

(劉)承薨、子愍王寵嗣。熹平二年、國相師遷追奏前相魏愔與寵共祭天神、希幸非冀、罪至不道。有司奏遣使者案驗。是時新誅勃海王悝、靈帝不忍復加法、詔檻車傳送愔・遷詣北寺詔獄、使中常侍王酺與尚書令・侍御史雜考。愔辭與王共祭黄老君、求長生福而已、無它冀幸。酺等奏愔職在匡正、而所為不端、遷誣告其王、罔以不道、皆誅死。有詔赦寵不案。
(『後漢書』列伝第四十、陳王寵伝)

後漢末期の諸侯王、陳王劉寵。



彼は後に弩大好きなことや袁術に殺されたことで有名になったが、こんな事件の渦中にあったことがあった。



当時の陳国の相は、前任の相と王である劉寵が天を祭り、よろしくない願い事をしていて「不道」の罪に当たる、と告発した。




よろしくない願い事とは、おそらくは「自分に帝位が転がり込んでくるように」であろう。




後漢では早死・幼帝が続発し傍流が皇帝になるという事態が実際に発生しているので、明帝の子孫である陳王寵が「自分にも皇帝になる目があるのではないか」と思うのは自然な流れだと思われる。


ただこれはつまり「今の皇帝早く死ね」と言っているのと変わらないので、これが事実なら皇帝への呪詛と同義である。




それに対し、陳王寵側は祭ったのは「黄老君」で、長寿祈願だけなのだと言い訳したという。




初、鉅鹿張角自稱「大賢良師」、奉事黄老道、畜養弟子、跪拜首過、符水呪説以療病、病者頗愈、百姓信向之。
(『後漢書』列伝第六十一、皇甫嵩伝)


「黄老」で健康長寿にご利益がありそうというと、いわゆる黄巾が思い当たる。



黄巾は乱を起こすに当たって「十餘年間、衆徒數十萬、連結郡國、自青・徐・幽・冀・荊・楊・兗・豫八州之人、莫不畢應」(『後漢書皇甫嵩伝)と陳国のある予州まで進出し、中央の宦官とまで結託していたとされる。



陳王寵が祭ったという「黄老君」とは、実は当時はまだ危険視されてはいなかった黄巾の教えなのではなかろうか。