幸福な太守

獻帝遷都西京、(劉)翊舉上計掾。是時寇賊興起、道路隔絶、使驛稀有達者。翊夜行晝伏、乃到長安詔書嘉其忠勤、特拜議郎、遷陳留太守。
翊散所握珍玩、唯餘車馬、自載東歸。出關數百里、見士大夫病亡道次、翊以馬易棺、脱衣斂之。又逢知故困餒於路、不忍委去、因殺所駕牛、以救其乏。衆人止之、翊曰「視沒不救、非志士也。」遂倶餓死。
(『後漢書』列伝第七十一、独行列伝、劉翊)

後漢末の人物、潁川の劉翊。



彼は献帝長安にいた時代、危険を顧みず上計吏となって長安へ至ったことで陳留太守に抜擢された。



この時期はいわゆる反董卓の諸将が長安政権に反旗を翻していた頃であるから、そういった連中によって事実上占拠されている兗州陳留郡へ長安政権に任命された太守が赴任するということは、それだけで命の危険があることを意味する。



そう考えると、これは抜擢されたとも言えるが捨て駒として大勢に影響ない程度の人間を選んだとも取れる。




ともかく、おそらく戻っては来れない任務のため赴任することになった劉翊は、財産を全て処分し、馬車などの赴任に必要なモノだけを残した。




道中、病死した士大夫に遭遇すると、彼はその士大夫のために馬車を金に換え、自分の衣服を供出して葬式を出してやった。



その上、知人が今にも飢え死にしそうになっているのに遭遇すると、自分の牛車を引いている牛(馬は換金してしまったから牛しかないのだろう)を殺して食わせてやろうとした。


伴の者はこれでは赴任できないため反対したが、彼は「死んでしまうのを見て見ぬふりするのは志士とは言えない」と言って与えてしまった。




おそらく、牛まで無くしては赴任地に行くこともままならず、食事も足りなくなったのだろう。

最後には彼自身もまた餓死してしまったという。





情勢的には彼が赴任地にたどり着いていたら、そもそも州内に入れずに終わるか、青州黄巾に攻め殺されるか、曹操やら呂布やらの争いの狭間で潰されるか、そんな不幸な終わり方をしていた可能性が高いように思う。



そう思えば、この最後はある意味では彼にとっては幸福だったのかもしれない。