漢の漢たちを語る20「君だけを幸せにしてみせるよ」:董賢

前漢の世において、皇帝にとって最も純粋な忠臣は、もしかしたら董賢かもしれない。



何故なら彼は、ひたすら哀帝個人に仕えていたように思えるからだ。




哀帝立、(董)賢隨太子官為郎。二歳餘、賢傳漏在殿下、為人美麗自喜、哀帝望見、説其儀貌、識而問之、曰「是舍人董賢邪?」因引上與語、拜為黄門郎、繇是始幸。
問及其父為雲中侯、即日徴為霸陵令、遷光祿大夫。
賢寵愛日甚、為駙馬都尉侍中、出則參乘、入御左右、旬月間賞賜絫鉅萬、貴震朝廷。
常與上臥起、嘗晝寢、偏藉上褏、上欲起、賢未覺、不欲動賢、乃斷褏而起。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、董賢)

哀帝と董賢の出逢いは、哀帝が皇帝になってからであった。



哀帝は眉目秀麗な董賢に惹かれて声をかけたのだという。


「やらないか?ホモセクロスはお尻を潤してくれる。漢民族の生み出した文化の極みだよ。そう感じないか? 皇帝陛下」


「僕の名を?」


「知らない者は無いさ。失礼だが君は自分の立場をもう少しは知ったほうがいいと思うよ」


「君は?」


「僕は董賢、字聖卿。君と同じホモセクロスを仕組まれた子供、郎官さ」


「君が・・・董聖卿・・・」


「董賢でいいよ、皇帝陛下」


「僕も、陛下でいいよ」

そういったやりとりがあったことは想像に難くない。




ふたりは意気投合(意味深)し、あっという間に董賢は朝廷の台風の目となった。



当然である。突如誰よりも皇帝陛下に近しい存在が出現したのだから。






この頃の哀帝の状況を確認してみよう。



彼は成帝の甥で、男子のなかった成帝の跡継ぎとして皇太子となった人物である。


成帝の血縁である太皇太后王氏(成帝の母)、そして皇太后趙氏(成帝の正妻、趙飛燕)とは血縁が無いが名目上は祖母や母として敬わなければいけない関係である。


朝廷の大臣たちはみな先代からの旧臣であるうえ、何かと煩い食わせ者ばかり。


なのに本来味方になってほしい血縁者すなわち外戚はやけに生臭い祖母傅氏を始め、これまた本当の意味ではあてにならない。




哀帝は単身で未央宮に乗り込んでいるようなものなのである。




そんな哀帝を癒した存在こそ、董賢だったのだろう。




「一時的接触を極端に避けるね、君は。怖いのかい? 朝臣と戦うのが。臣下を知らなければ裏切られる事も、互いに傷つく事も無い。でも、寂しさを忘れる事もないよ。陛下は寂しさを永久になくす事はできない。陛下は一人だからね。ただ忘れる事が出来るから、陛下は生きていけるのさ」


「常に陛下は心に痛みを感じている。心が痛がりだから生きるのも辛いと感じる。ガラスのように繊細だね? 特に陛下の心は」


「行為に値するよ。好きってことさ」


こうして董賢は哀帝と寝所をともにし、かの有名な「断袖」のエピソードも起こることとなった。





それに、董賢はただ哀帝の心を癒しただけではない。



先日話題にしたように、この陰謀渦巻く味方のいない宮殿において毒殺を防ごうと孤軍奮闘していたのである。



彼は、哀帝を真の意味でサポートする存在だったのではないかと思われるのだ。





どうしてそこまでするのか、というと、もう権勢欲などだけでは説明つかない。




これはもう「愛」なのではないか。






その後、哀帝は董賢を列侯に封じ、三公の筆頭「大司馬」に任命した。



これは寵臣に対する単なる贔屓起用、皇帝の我儘とも見ることは出来る。



だがこれをもう一面から見れば、それだけ哀帝にとって董賢の存在は大きかった事を意味しているのだろう。



後上置酒麒麟殿、賢父子親屬宴飲、王閎兄弟侍中中常侍皆在側。上有酒所、從容視賢笑曰「吾欲法堯禪舜、何如?」閎進曰「天下乃高皇帝天下、非陛下之有也。陛下承宗廟、當傳子孫於亡窮。統業至重、天子亡戲言!」上默然不説、左右皆恐。於是遣閎出、後不得復侍宴。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、董賢)

哀帝はどうやら病気を患っていたらしく、跡継ぎの男子も生まれていない中であったため20代の若さにして後継を意識せずにはいられなかったらしい。



哀帝が董賢への禅譲を示唆するかのような発言をしたのは、そういった状況を反映したものであるとともに、それだけ哀帝にとって董賢が大事であり、また無私に仕えてくれる純粋な忠臣であると感じていたことの表れなのだろう。




王閎者、王莽叔父平阿侯譚之子也、哀帝時為中常侍
時倖臣董賢為大司馬、寵愛貴盛、閎屢諫、忤旨。哀帝臨崩、以璽綬付賢曰「無妄以與人。」
時國無嗣主、内外恇懼、閎白元后、請奪之。即帯劔至宣紱後闥、舉手叱賢曰「宮車晏駕、國嗣未立、公受恩深重、當俯伏號泣、何事久持璽綬以待禍至邪!」賢知閎必死、不敢拒之、乃跪授璽綬。閎持上太后、朝廷壯之。
(『後漢書』列伝第二、張歩伝)

哀帝は早死にしてしまうわけだが、その時皇帝の璽綬、すなわち次の皇帝に与えられるべき神器を董賢に託した。


禅譲をほのめかしてはいるが董賢に即位しろと言う意味とは考えにくいので、おそらくは董賢に次の皇帝選びをリードし、董賢自身に自分の遺志を継いでほしかったのだろう。



だがさしもの董賢の忠誠心も、宮殿に武装して踏み入り実力で奪いにかかる王閎には敵うはずもなかった。


これは失敗すれば破滅しかねない大ばくちを成功させた王氏側を誉めるべきなのだろう。




(王)莽還京師歳餘、哀帝崩、無子、而傅太后・丁太后皆先薨、太皇太后即日駕之未央宮收取璽綬、遣使者馳召莽。詔尚書、諸發兵符節、百官奏事、中黄門・期門兵皆屬莽。莽白「大司馬高安侯董賢年少、不合衆心、收印綬」賢即日自殺。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


哀帝と璽綬を失った董賢は進退窮まり、その日の内にすべてを失い自殺を余儀なくされた。



哀帝にお尻はもちろん全身全霊を捧げた彼は、哀帝から託されたモノを失った以上はこれ以上生きる望みはなかったのだろう。




ホタルの一生のようではないか。色々な意味で。