漢の漢たちを語る19「皇帝へ血の脅迫」:薛広徳

前漢元帝が即位したばかりの時代。



この時期、異常気象による飢餓と流民発生という問題が朝廷を悩ませていた。



これは天人相関説の世にあっては新皇帝の資質に疑いの目を向けさせる可能性もあるという意味でも危険な事態であったと言える。





そんな時期に御史大夫となっていたのが薛広徳という儒者であった。


彼は官僚としては中央で博士や言事官などを歴任した人物で、バリバリの行政畑とは対極にいる人物であった。



そして温厚な人柄であると評されていたようで、もしかしたら新皇帝(元帝)の邪魔をしないような人物ということで副宰相に選ばれたのかもしれない。




だが、どうやら彼はそんな一筋縄で行く人物ではなかったことが判明する。

(薛)廣徳為人温雅有醞藉。及為三公、直言諫爭。
始拜旬日間、上幸甘泉、郊泰畤、禮畢、因留射獵。廣徳上書曰「竊見關東困極、人民流離。陛下日撞亡秦之鐘、聽鄭衛之樂、臣誠悼之。今士卒暴露、從官勞倦、願陛下亟反宮、思與百姓同憂樂、天下幸甚。」上即日還。
(『漢書』巻七十一、薛広徳伝)


元帝は甘泉の離宮へ行き祭礼を済ませると、そこで狩猟に打ち興じようとした。



その時、薛広徳の筆が唸る!



「東方が困窮の極みにあり流民も発生しているというのに、陛下と来たら亡国秦の鐘を突き、鄭や衛の淫靡な歌を聴くのですか?兵卒たちは野外で厳しい環境にさらされ、侍従たちも様々な仕事に忙殺されているのですよ?陛下は早いとこ長安に戻って下々の者たちと気持ちを一つにした方がよろしいのでは?」



痛烈である。つまり「お前こんなことだと国を滅ぼすよ?皇帝の資質を疑われる前にやめとけよ」と言っているのである。



元帝は音楽が趣味であったので、儒者から事あるごとに批判される「鄭・衛の楽」を槍玉に挙げたのもポイントが高い。




其秋、上酎祭宗廟、出便門、欲御樓船、廣徳當乘輿車、免冠頓首曰「宜從橋。」詔曰「大夫冠。」廣曰「陛下不聽臣、臣自刎、以血汙車輪、陛下不得入廟矣!」上不説。先敺光祿大夫張猛進曰「臣聞主聖臣直。乘船危、就橋安、聖主不乘危。御史大夫言可聽。」上曰「曉人不當如是邪!」乃從橋。
(『漢書』巻七十一、薛広徳伝)

またその後、元帝はまたもや祭祀の際にやらかすことになる。



元帝は宗廟の祭祀である「酎」の祭り(酒を宗廟に献上する)のため、船に乗って宗廟へ向かおうとした。


だが、そこに薛広徳が立ちはだかる。




「橋をお使いください」



だが聞かない元帝

すると薛広徳はとんでもないことを言い出す。




「では、私は自ら首を刎ねて宗廟に乗りつける車を血塗れにして差し上げましょう。車が血で汚れては宗廟には入れません。いいんですか?やりますよ?いいんですか?本当にいいんですか?」



元帝はこの身体を張った脅しに怒り心頭だったようだが、そこに側近である光禄大夫張猛が駆けつけて薛広徳の言葉足らずを補足する。



「聞くところでは聖天子の元には真っ直ぐな臣下がいると言います。船に乗るというのは転覆の危険がありますが、橋を使えばその危険が無い。聖天子は危険なことはしないのです。御史大夫の言うとおりにするべきでしょう」



ここで元帝は薛広徳の諫言の意味を知り、船に乗るのを止めたのだった。



「やれやれだぜ。人を諭すなら張猛のようにわかりやすくしてくれないとな」と捨て台詞を残して。

「薛広徳お前もっとわかりやすく言えよこのコミュ障!」ってことだ。





思うに、薛広徳は自らの命さえ危険に晒して「元帝を天下を思い諫言に従う聖天子」として印象付けるための演出を試みたのかもしれない。



偉大な宣帝の後を受け、その父が廃嫡も考えたほどの人物として有名な元帝に、少しでも「いけるやん!」というイメージを与えるためには、こういった過剰なほどの演出が必要だったのではなかろうか。



若きボンクラ後継者を何とかしようという旧臣の涙ぐましい努力、というところだろうか。





そうだとしたら、薛広徳がその翌年に東方での流民発生の責任を取らされる形で辞任(事実上の罷免)することとなった、という寂しいオチは書かない方が良さそうだ。



元帝内心嫌ってたんだろうねえ。