固陵太守

劉琰字威碩、魯國人也。先主在豫州、辟為從事、以其宗姓、有風流、善談論、厚親待之、遂隨從周旋、常為賓客。
先主定益州、以琰為固陵太守。
(『三国志』巻四十、劉琰伝)


三国時代の蜀の劉琰は、劉備益州を取った後に「固陵太守」になったという。



(建安)二十一年、劉備分巴郡立固陵郡。蜀章武元年又改固陵為巴東郡、巴西郡為巴郡、又分廣漢立梓潼郡、分犍為立江陽郡、以蜀郡屬國為漢嘉郡、以犍為屬國為朱提郡。
(『晋書』巻十四、地理志上、益州

この固陵郡というのは後の巴東郡に当たるらしい。



荊州益州を接続するあたりということになるのだろうか。





あくまでも個人的なイメージだが、劉琰というと何となく口だけで何もしていないみたいな印象があったのだが、劉備の元では腹心としてそこそこ重要な地域に配置されていたということなのかもしれない。