単純所持禁止

轉為武徳侯庶子。二十二年、坐其宗人吉本等起事被收。先是科禁内學及兵書、而(吉)茂皆有、匿不送官。及其被收、不知當坐本等、顧謂其左右曰「我坐書也。」
(『三国志』巻二十三、常林伝注引『魏略』)


『魏略』の吉茂伝によれば、後漢末当時、曹操の支配圏においては内学(讖緯の学)と兵書の所持が禁じられていたらしい。



だが吉茂はそれを隠し持っていた。




吉茂の遠縁である吉本が反乱を起こすと、連座して当時武徳侯庶子だったという吉茂も捕縛されたが、事情を良く理解していなかった吉茂は「私は書物を隠していたから捕まった」と言ったのだと言う。





当時、兵書の私的所持がご法度だったらしいというのはなかなか興味深い。



「官に送らなかった」とあるので、単に禁止するというよりは兵書の利用を全て公的機関で統制しようということだったのかもしれない。