謀反人の弟たち

王閎者、王莽叔父平阿侯譚之子也。・・・(中略)・・・
及王莽篡位、僭忌閎、乃出為東郡太守。閎懼誅、常繫藥手内。莽敗、漢兵起、閎獨完全東郡三十餘萬戶、歸降更始。
(『後漢書』列伝第二、張歩伝)

(隗)囂乃勒兵十萬、撃殺雍州牧陳慶。將攻安定。
安定大尹王向、(王)莽從弟、平阿侯譚之子也。威風獨能行其邦内、屬縣皆無叛者。囂乃移書於向、喻以天命、反覆誨示、終不從。於是進兵虜之、以徇百姓、然後行戮、安定悉降。
(『後漢書』列伝第三、隗囂伝)

新末の時期には王莽の従兄弟にあたる王氏の太守が二人出てきている。



この王閎と王向は二人はどうやら兄弟のようだ。





当時の王氏といえば皇族であり、同じ従兄弟でも王邑などは三公など新の中核を担っていたのと比べると、どうも彼らの扱いが悪く感じる。




(王)莽因是誅滅衛氏、窮治呂𥶡之獄、連引郡國豪桀素非議己者、内及敬武公主・梁王立・紅陽侯立・平阿侯仁、使者迫守、皆自殺。死者以百數、海内震焉。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


それはおそらく、平阿侯王仁(王莽の叔父王譚の跡継ぎ。王向らの兄と思われる)が呂寛・王宇(王莽の長男)による反王莽の陰謀が発覚した際に連座して自殺させられたことと無関係ではないだろう。



平阿侯家は謀反人を出した家と扱われ、王莽にとって親戚ではあっても扱いが悪かったのだと思われる。




王閎が誅殺を恐れていつでも自殺できるよう毒薬を用意していたというのは、単に王莽との関係が悪いとか王莽が実力を憚ったとかいうだけではなく、兄が謀反人の一味として死んだあとに残された弟という極めて微妙な立場だったことも大いに関係しているだろう。