殷王の立ち位置2

當是時、趙別將司馬卬方欲渡河入關、沛公乃北攻平陰、絶河津。
(『史記』巻八、高祖本紀)


のちの漢の高祖である沛公劉邦は秦討伐の任を受けて武関を目指し南陽方面へ侵攻中、同じく秦を攻めようとする趙の別動隊司馬卬(のちの殷王)を攻め、渡河を阻んで彼らを邪魔したという。




當是時、燕・齊・楚聞趙急、皆來救。張敖亦北收代兵、得萬餘人、來、皆壁餘旁、未敢撃秦。
(『史記』巻八十九、張耳陳余列伝)

この時期、趙といえば王と張耳が秦将章邯に攻囲され、燕・斉・楚が救援の軍を出すという事態であった。



司馬卬は総大将の危機の最中に援軍に駆けつけることよりも秦を攻めることを選んだということなのだろうか(もちろん、行っても間に合わないと思ったのかもしれないし、そういう命令だったのかもしれないし、情報が伝わらなかったのかもしれない)。






秦将章邯に敵わないと思い救援の兵を出すことを思いとどまっていた陳余は、項羽によって救われた張耳から恨まれることとなった。

まあ感情としては当然である。




理由はどうあれ救援よりも秦攻撃を優先していた司馬卬のことも、張耳はあまり良く思っていなかったのではなかろうか。




そうだとしたら、そんな関係の張耳と同格の王になった司馬卬の立場というのもなかなかに微妙なものがあったのではなかろうか。



司馬卬が項羽に反抗したという先日の記事は、「張耳と反目する者同士の陳余と司馬卬が力を合わせて項羽の意志に背き張耳を追い出した」という構図だったのかもしんまい。