駱秀

會稽典録曰、謝淵字休徳、少修紱操、躬秉耒耜、既無慼容、又不易慮、由是知名。舉孝廉、稍遷至建武將軍、雖在戎旅、猶垂意人物。駱統子名秀、被門庭之謗、眾論狐疑、莫能證明。淵聞之歎息曰「公緒早夭、同盟所哀。聞其子志行明辯、而被闇昧之謗、望諸夫子烈然高斷、而各懷遲疑、非所望也。」秀卒見明、無復瑕玷、終為顯士、淵之力也。
(『三国志』巻五十八、陸遜伝注引『会稽典録』)

これによると、三国呉の駱統の子は駱秀と言い、朝廷で何か誹謗されるようなことがあったらしい。



だが謝淵という人物は彼が疑われているということに嘆息し、彼が無罪となって潔白を明らかにする上で大いに力があったのだという。







駱統の子の駱秀について、自分が見る限り『三国志』巻五十七の駱統伝には一切記録が無い。




秋七月、海賊破海鹽、殺司鹽校尉駱秀。
(『三国志』巻四十八、孫休伝)

たぶんこの麦わらの一味に殺された司塩校尉が駱統の子の駱秀なのだろうが、他には記録を見つけられない。どこかに何かあるかもしれないけど。





つまり、『三国志』なんかの列伝の中では、「子が無い」と明記されていない限り、「子についての記録はない」は「子がいなかった」とイコールとは限らないということだ。