公孫勇の反乱

郡國盜賊並起、遷(田)廣明為淮陽太守。歳餘、故城父令公孫勇與客胡倩等謀反、倩詐稱光祿大夫、從車騎數十、言使督盜賊、止陳留*1傳舍、太守謁見、欲收取之。廣明覺知、發兵皆捕斬焉。而公孫勇衣繍衣、乘駟馬車至圉、圉使小史侍之、亦知其非是、守尉魏不害與廐嗇夫江徳・尉史蘇昌共收捕之。上封不害為當塗侯、徳轑陽侯、昌蒲侯。
(『漢書』巻九十、田広明伝)

武帝の末期、淮陽のあたりで元役人の公孫勇と客分胡倩による反乱事件があった。




胡倩は馬車や從騎を多数揃えて皇帝の使者と偽り、太守がのこのこ出てきたところを捕えようとしたのだという。



おそらく、太守の権限をそのまま乗っ取ろうとしたのだろう。


当時、各地で反乱や群盗が多数発生しており、皇帝がその逮捕・討伐を厳しく責めたてる使者を出すことが少なくなかった。

だから、その一つに化けようとしたのだ。




また公孫勇の方は刺繍のある衣服をまとった「繍衣使者」に化けていた。




こちらは皇帝の御史などが皇帝の勅命を受けて各地の太守を臨時に監察し処分までしてしまうという恐怖の使者であった。



もし太守たちを騙しおおせることができれば、難なく太守を捕えてしまうことができるわけだ。





これらは淮陽太守田広明や現地の役人たちが偽物だと気付いたため大事には至らなかったが、公孫勇らは繍衣や皇帝の使者と騙せそうなくらいの車騎を揃えていたことになる。


元役人とはいえ県令が最高位だった割には随分金と手がかかっているような気もする。





公孫勇単独の犯行ではなく、バックにはもっと大物がついていたんじゃないかと思えないことも無い。
つまり、彼は先兵に過ぎないのではないか、ということだ。




この反乱はもし防げなかったら意外と大変なことになっていたのかもしれない。

*1:「陳留」では淮陽太守とは関係ないことになるのではないか。もしかしたら「陳」なのかもしれない。