劉邦の恨み骨髄

沛父兄皆頓首曰、「沛幸得復、豐未得、唯陛下哀矜。」上曰「豐者、吾所生長、極不忘耳。吾特以其為雍齒故反我為魏。」沛父兄固請之、乃并復豐、比沛。
(『漢書』巻一下、高帝紀下)


漢の高祖劉邦は自分の故郷の地である沛に徭役免除の特権を与えたが、彼が生まれ育った豊(沛所属の邑の一つであったようである)には与えたがらなかった。



最終的には与えているのだがが、かなり出し渋った理由は豊と雍歯なる人物の裏切りであったという。





秦二年十月、沛公攻胡陵・方與、還守豐。秦泗川監平將兵圍豐、二日、出與戰、破之。
令雍齒守豐。
十一月、沛公引兵之薜。秦泗川守壮兵敗於薛、走至戚、沛公左司馬得殺之。沛公還軍亢父、至方與。
趙王武臣為其將所殺。
十二月、楚王陳涉為其御莊賈所殺。
魏人周市略地豐沛、使人謂雍齒曰「豐、故梁徙也、今魏地已定者數十城。齒今下魏、魏以齒為侯守豐。 不下、且屠豐。」雍齒雅不欲屬沛公、及魏招之、即反為魏守豐。沛公攻豐、不能取。沛公還之沛、怨雍齒與豐子弟畔之。
(『漢書』巻一上、高帝紀上)


それが起こったのは劉邦の挙兵直後。


劉邦の支配圏は沛と豊の近辺だけであり、それらの邑の支配者である秦の泗川守らを打ち破るべく戦いを繰り広げていた。




豊もまた泗川監に包囲されたが劉邦らが撃退している。




しかし、劉邦が豊を雍歯に任せて泗川守と戦っている間に、雍歯は劉邦を裏切る形で魏に降伏してしまったのである。





劉邦が雍歯を憎んでいたことは有名だが、こうして見ると劉邦から見れば憎んで余りある行為をしたと言っていいだろう。

自分が死闘を繰り広げている間に、いくら脅されていたとはいえ寝返ったわけなのだから。



こんな寝返りをしても平気でまた戻ってこれるなんて他にカインくらいしかいないのではないだろうか*1





更に、雍歯の裏切りを支持した豊の住人たちもまた劉邦にとって憎むべき存在となったのも仕方ない。



劉邦が沛の指導者になった経緯などを見るとわかるが、当時は住人自治的なものが強い力を持っていたようだ。


豊を守った恩人であり、地元出身の英雄でもあるはずの自分を見限ったのは、豊の住民全体の総意とも取れるわけである。




そりゃあ、劉邦さんだって豊に対していい想い持てないわな。




私で言えば、カインよりもヤンやギルバートを使いたいというようなものだろう。

*1:筆者は古いゲーム脳です。