コメントありがとうございます

先日の記事のコメント(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130714/1373734281#c)にて、T氏と殷景仁氏より「私諡」の実例を教えていただいた。


せっかくなのでそれらを確認してみることにする。





列女傳、柳下惠死、門人將謚之。妻曰、夫子之謚宜為惠乎。門人從以為謚。
(『春秋左氏伝』孔穎達疏、僖公二十六年)

柳下恵についてはこれのことなのだろう。


彼は有名な古の賢人だが、彼については死後に門人と妻が諡を相談したという話が残っている。




中平四年、年八十四、卒于家。何進遣使弔祭、海内赴者三萬餘人、制衰麻者以百數。共刊石立碑、謚為文範先生。
(『後漢書』列伝第五十二、陳寔伝)

後漢末の陳寔は官に何度特別待遇で召し出されても仕官しようとせずにこの世を去った。


その彼の宋義には大将軍何進をはじめとする三万人の者が参列し、彼を称える石碑には「文範先生」なる諡が贈られたという。



と言ってもこれは政府が公式に贈った諡ではなく、楊厚と同じように彼の死を悼む者たちによる私諡なのだと思われる。



元嘉四年、將復徴命、會卒。世號靖節先生。
(『南史』巻七十五、隠逸伝上、陶潜)

陶潜、いわゆる陶淵明は没後に世間から「靖節先生」と呼ばれた。


これも私諡なのだろう。