諫言から謀反へ

及靈帝即位、以(襄)楷書為然。太傅陳蕃舉方正、不就。郷里宗之、毎太守至、輒致禮請。中平中、與荀爽・鄭玄倶以博士徴、不至、卒于家。
(『後漢書』列伝第二十下、襄楷伝)

後漢後半に襄楷という人がいた。



この人は天文に明るい人物で、桓帝の治世にその天文の知識を駆使して痛切な諫言を行い、主に宦官を攻撃した。




彼は命は助けられたものの処罰されて出世の道を絶たれることとなった。



だが霊帝の時代には陳蕃が推挙したり太守に崇拝されたり後漢末には博士という特別待遇で召し出されたりしたが、結局世には出ずにニートのまま亡くなったという。






だが、彼にはどうももう一つの顔があったようだ。

司馬彪九州春秋曰、於是陳蕃子逸與術士平原襄楷會于(王)芬坐、楷曰「天文不利宦者、黄門・常侍真族滅矣。」逸喜。芬曰「若然者、芬願驅除。」於是與(許)攸等結謀。靈帝欲北巡河間舊宅、芬等謀因此作難、上書言鄢山賊攻劫郡縣、求得起兵。會北方有赤氣、東西竟天、太史上言「當有陰謀、不宜北行」、帝乃止。敕芬罷兵、俄而徴之。芬懼、自殺。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『九州春秋』)

襄楷は霊帝の時代の反乱未遂事件、王芬の事件(曹操も誘われたことで有名なアレ)の重要参考人であったらしい。



だがどうやら上手いこと連座せずに済んで後漢末まで生きながらえたようだ。



許攸といい割と深く関わった者が処罰されていないのに驚く。





命がけの諫言が上手く実を結ばなければ今度は命がけで皇帝そのものを挿げ替えにかかる。


これが当時の士大夫の行動様式の一つだったんだろうか。