諸侯子

令太子守櫟陽、諸侯子在關中者皆集櫟陽為衛。
(『史記』巻八、高祖本紀)

五月、兵皆罷歸家。諸侯子在關中者復之十二歳、其歸者復之六歳、食之一歳。
(『史記』巻八、高祖本紀)


項羽と劉邦の時代の頃、「諸侯子」という言葉が使われていた。




これは多分「諸侯の子供」つまり趙王張耳の子だとか韓王韓信の子だとかということではないと思う。



(項)羽使卒三萬人從漢王、楚子・諸侯人之慕從者數萬人、從杜南入蝕中。
【注】
文穎曰「 楚子、猶言楚人也。諸侯人、猶諸侯國人。」
(『漢書』巻一上、高帝紀上)

「楚子」という言葉もあって、「楚の人間」を意味していたという。



だから上の「諸侯子」は「諸侯の国の人間」なのだろう。


もっと言えば、「諸侯の国の出身だが劉邦につき従っている功労者」ではなかろうか。

漢王の劉邦にとって漢王国の人間は付き従うのが当然だが、諸侯の国の出身でありながら敢えて劉邦に付き従って戦った人間は、自発的に主として劉邦を選んだことになる。




こういった人間を「諸侯子」と称して特別扱いし、戦時中は太子の近衛兵として呼び寄せ、戦後は他より手厚い徭役免除などを与えたのではなかろうか。