牛継馬後

昨日の記事については、そもそもこの記事をパクr・・・おおいに参考にさせてもらっている。




そこに一つ気になる部分があるではないか。




その部分について原文を引用させてもらう。

(元)行沖以本族出於後魏、而未有編年之史、乃撰魏典三十卷、事詳文簡、為學者所稱。
初魏明帝時、河西柳谷瑞石有牛繼馬後之象、魏收舊史以為晉元帝是牛氏之子、冒姓司馬、以應石文。行沖推尋事跡、以後魏昭成帝名犍、繼晉受命、考校謠讖、特著論以明之。
(『旧唐書』巻一百二、元行沖伝)


唐の元行沖さんは魏(拓跋氏の方)の王族出身であり、『魏典』なる編年史を作った。


その中で彼は、三国魏明帝の「河西柳谷瑞石」に「牛継馬後」のサインがあるということについて触れており、『魏書』の魏収はそれを「晋の元帝魏の明帝と同じ実は牛氏」ということを示していると解釈したが、元行沖は拓跋氏の昭成帝の名は牛へんの「犍」なので、それを示しているのだ、との解釈を示した。


つまり拓跋氏の子孫としては馬=晋の次は牛=魏であると天が予告していた、と言いたいわけだ。




で、つまるところ「牛継馬後」というのは昨日の記事にあった魏明帝青龍三年の張掖郡金山柳谷の謎の石像群のことを言っているようだ。

確かに馬に混じって何故か牛が存在をアピールしている。




トラックバック先にもある司馬懿牛金を暗殺したという有名な話は公孫氏を滅ぼした後の話とされている。



その辺を信じるなら、司馬懿は例の馬の石像群の話を知って「こりゃあ俺の時代来ちゃったかな?」と内心ほくそ笑み、同時に「牛が馬の後を継ぐ」と読み取れることから、一番怪しい「牛氏」を殺して予防しようとした、ということになるんだろう。



公孫氏を倒して帰還する途上で司馬懿は明帝が壮年の後継ぎを得ずに死亡したことを聞いている。


司馬懿はその報に接して予言が真実であると悟り、同時に「牛氏」抹殺の必要にも気づいた、みたいに考えると面白いかもしんまい。