漢の漢たちを語る16「身体を張る皇帝」:恵帝

漢の二代目皇帝、恵帝。



彼は『史記』で本紀を立てられない影の薄さであるが、それではどうでもいいような小物だったのかといえば、個人的にはそうは思わない。

彼には彼の壮絶な人生があったのである。



漢王道逢得孝惠・魯元乃載行。楚騎追漢王、漢王急、推墮孝惠・魯元車下、滕公常下收載之。如是者三。曰「雖急不可以驅、奈何棄之?」於是遂得脱。
(『史記』巻七、項羽本紀)


有名な話だが、恵帝は父の高祖劉邦が敗走中に捨てられそうになったという過去を持っている。

これだけでもグレてしまいそうなものであるが、彼には更に追い打ちがかけられる。


及高祖為漢王、得定陶戚姫、愛幸、生趙隠王如意。孝惠為人仁弱、高祖以為不類我、常欲廢太子、立戚姫子如意、如意類我。戚姫幸、常從上之關東、日夜啼泣、欲立其子代太子。呂后年長、常留守、希見上、益疏。如意立為趙王後、幾代太子者數矣、頼大臣爭之、及留侯策、太子得毋廢。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


高祖は太子としていた恵帝を「俺に似てないな・・・」と思って廃位したいと常々思っており、側室戚姫から生まれた如意の方が「俺に似ている」と思っていた。
そして戚姫も自分の息子を太子にしてほしいと泣いて頼むものだから、本気で太子を代えようとしていたという。
恵帝はかの張良らの大臣たちの説得と作戦のお蔭で廃位を免れたが、恵帝の心には色々と重いモノがのしかかったことだろう。


孝惠帝慈仁、知太后怒、自迎趙王霸上、與入宮、自挾與趙王起居飲食。太后欲殺之、不得輭。孝惠元年十二月、帝晨出射。趙王少、不能蚤起。太后聞其獨居、使人持酖飲之。犂明、孝惠還、趙王已死。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


高祖が死んで恵帝が即位すると、皇太后となった母呂氏(呂后)は当然に戚姫と如意を殺しにかかった。
まず戚姫を捕え、更に趙王となっていた如意も召し出して殺そうとする。


如意と戚姫のために自分の地位が怪しくなったにもかかわらず、恵帝は彼らを恨むどころか、母呂后から如意を守ろうとするのだった。

あの両親から何がどうなってこんな成分の半分が優しさで出来ているような子が生まれるのだろう。


父に殺されるところだったからこそ、家族に飢えていたのだろうか。



だが、結局は如意を守り切ることはできず、如意は死んでしまう。

太后遂斷戚夫人手足、去眼、莩耳、飲瘖藥、使居廁中、命曰「人彘」。居數日、迺召孝惠帝觀人彘。孝惠見、問、迺知其戚夫人、迺大哭、因病、歳餘不能起。使人請太后曰「此非人所為。臣為太后子、終不能治天下。」孝惠以此日飲為淫樂、不聽政、故有病也。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


そしてかの有名な「人彘」が生まれてしまうことになる。

酷く衝撃を受けた恵帝は母に対して「こんなことは人間のやることではありません。貴方の子である私には、もう天下を治めることなどできません」と言い、政務を放棄して飲みふけるようになった、という。

カヲル君が知ったら「ガラスのように繊細だね、特に君の心は」くらいは言ってくれそうな繊細さと純粋さではないか。


だが、彼がもうこれでヤケになって何もかも投げ打ったと思うのは早計である。

二年、楚元王・齊悼惠王皆來朝。十月、孝惠與齊王燕飲太后前、孝惠以為齊王兄、置上坐、如家人之禮。太后怒、迺令酌兩卮酖、置前、令齊王起為壽。齊王起、孝惠亦起、取卮欲倶為壽。太后迺恐、自起泛孝惠卮。齊王怪之、因不敢飲、詳醉去。問、知其酖、齊王恐、自以為不得脱長安、憂。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


次の年、恵帝の兄である斉王が来朝した。

恵帝は宴会の時に斉王を立てて兄としての礼を執った。つまり皇帝が王に対してへりくだったのである。
呂后はこれに怒り、斉王の酒に毒を入れて殺そうとした。

恵帝はこれに気付くと、敢えて一緒に杯を取り、一緒に酒を飲もうとした。このままでは恵帝も一緒に死ぬことになる。

呂后は「うぉっとぉー手が滑ったぁー」と白々しく杯を倒して酒を飲めなくしてしまった。
恵帝はこうするしか斉王に毒酒を飲ませない方法を思いつかなかったのだろう。

ヘタをすれば恵帝は毒で死にかねなかった。それでもなお、兄を救うために毒の杯を飲もうとしたのである。


ぐうの音も出ないほど聖人、とは彼のことではないか。


辟陽侯幸呂太后、人或毀辟陽侯於孝惠帝、孝惠帝大怒、下吏、欲誅之。呂太后慙、不可以言。大臣多害辟陽侯行、欲遂誅之。
(『史記』巻九十七、酈生陸賈列伝)


また、こんな話がある。

呂后が寵愛していた辟陽侯審食其を恵帝に対し悪く言う者がおり、恵帝は激怒して誅殺しようとしたという。

何故か、寵愛していた呂后は恥じてこの件について何も言えなかった。


恵帝が政務への熱意をまるで無くしていたというのがちょっと怪しく感じる話である。

また、どうして恵帝が激怒し、呂后が大人しくなるという如意の件とは逆の構図になるのか、ちょっと不思議に思うところだ。
呂后にとって余程都合の悪いことを言われていたのだろう。


この事件では審食其を助ける者たちがいたために誅殺されることはなかったが、恵帝が呂后イエスマンではなかったことがわかる。
むしろ、如意の時も斉王の時も、呂后の凶行に対して反抗的だった。


皇帝にとっても母親というのはある種絶対的な存在なのであるから、その行為を阻んだり反対したりするというのは簡単なことではないのだ。
命まで張って母に反抗した恵帝は、ある意味では物凄く剛直な人物とも言える。


七年秋八月戊寅、孝惠帝崩。發喪、太后哭、泣不下。留侯子張辟彊為侍中、年十五、謂丞相曰「太后獨有孝惠、今崩、哭不悲、君知其解乎?」丞相曰「何解?」辟彊曰「帝毋壯子、太后畏君等。君今請拜呂台・呂産・呂祿為將、將兵居南北軍、及諸呂皆入宮、居中用事、如此則太后心安、君等幸得脱禍矣。」丞相迺如辟彊計。太后説、其哭迺哀。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


なお、恵帝が若くして世を去った時、その葬式で呂后には涙が見えなかった。その理由は「十分な年齢の後継ぎがいないために次の代に功臣たちに巻き返されることが心配で涙が出ないのだ」とされている。
母にとって、息子を失った悲しみは政権を維持できるかどうかの心配に勝るものではなかったのだ。



思えば、恵帝が地位を失いそうになったのは戚姫のせいだし、その戚姫を家畜人にしたのは母の呂后であった。
更には、正妻には姉の娘、すなわち実の姪を押しつけられている。

恵帝の人生は女性によって翻弄されていると言う事もできるのではないだろうか。

漢興、佞幸寵臣、高祖時則有籍孺、孝惠有閎孺。此両人非有材能、但以婉媚貴幸、與上臥起、公卿皆因關説。故孝惠時、郎侍中皆冠鵔鸃、貝帶、傅脂粉、化閎・籍之屬也。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝)


というわけで、女性のためにささくれ立った恵帝の心を卑し癒していたのは閎孺という男の娘だった。

女性のような化粧をしていたようだから、恵帝は女性に興奮しないわけではないのだろう。
それまでの経緯から女性に対し嫌悪感を募らせた結果、男の娘ぺろぺろという結論に至ったに違いない。