索隠、韋昭云「媼、婦人長老之稱。」皇甫謐云「媼蓋姓王氏。」又據春秋握成圖以為執嘉妻含始、遊洛池、生劉季。詩含神霧亦云。姓字皆非正史所出、蓋無可取。今近有人云「母温氏」。貞時打得班固泗水亭長古石碑文、其字分明作「温」字、云「母温氏」。貞與賈膺復・徐彦伯・魏奉古等執對反覆、沈歎古人未聞、聊記異見、於何取實也?孟康注「地神曰媼」者、禮樂志云「后土富媼」、張晏曰「坤為母、故稱媼」是也。
(『史記』巻八、高祖本紀注、司馬貞索隠)
『史記』の注のひとつ『史記索隠』によれば、晋の皇甫謐は「漢の高祖劉邦の母親の姓は王氏だよ。たぶん」と言い、また『春秋緯』『詩緯』から高祖の母の名は「含始」だよ、と言っていたらしい。
また、「母は温氏」という説もあったようだ。「媼」は「温」の誤りだ、みたいな説だったのだろう*1。
しかし、唐の司馬貞は「ワシ、班固の「泗水亭長古石碑文」には「高祖の母は温氏やでー」と書いてあるのを見たけど、あれを他の連中と議論してみた結果、アレインチキやろ、という結論になったわ。「劉媼」の「媼」は「お母さん」っていう意味だと思うで」と言い、皇甫謐の説を否定している*2。
結局「高祖の母の姓名は不明」としか言いようがないのだが、それだけに妙な説が出てきたりアヤシイ碑文や系図が出現したりしたということなのかもしれない。