漢の漢たちを語る12「戦場を駆ける」:潅嬰

かの項羽が最後に呉への逃亡を拒否して漢の追っ手に追いつかれ自殺したことは有名だが、その漢の追っ手の指揮官が誰であったかは割と知られていないのではなかろうか。

項王乃曰「吾聞漢購我頭千金・邑萬戸、吾為若徳。」乃自刎而死。王翳取其頭、餘騎相蹂踐爭項王、相殺者數十人。最其後、郎中騎楊喜・騎司馬呂馬童・郎中呂勝・楊武各得其一體。五人共會其體、皆是。
(『史記』巻七、項羽本紀)

項籍敗垓下去也、(灌)嬰以御史大夫受詔將車騎別追項籍至東城、破之。所將卒五人共斬項籍、皆賜爵列侯。
(『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝)


その指揮官は潅嬰。


漢の高祖劉邦にとっては同郷ではなく、項梁死後の加入のため早い段階からいるとはいえ最古参というほどではない。
しかも一味の中では比較的若かったらしい。




ではなぜ彼がこのような大事な任務を任されていたのか。

楚騎來衆、漢王乃擇軍中可為騎將者、皆推故秦騎士重泉人李必・駱甲習騎兵、今為校尉、可為騎將。漢王欲拜之、必・甲曰「臣故秦民、恐軍不信臣、臣願得大王左右善騎者傅之。」灌嬰雖少、然數力戰、乃拜灌嬰為中大夫、令李必・駱甲為左右校尉、將郎中騎兵撃楚騎於滎陽東、大破之。
(『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝)

漢王劉邦項羽が争っていた時、楚の騎兵の襲来を知った劉邦は対抗するために騎兵部隊を編成して迎撃しようとし、その指揮官として秦の人間だった李必と駱甲を選ぼうとした。

だがその二人は「我ら秦の人間が上に立っては軍内で信用されませんから、王の側近で騎兵の技術に優れた者を選ぶのがいいでしょう」と進言し、そこで潅嬰が選ばれたのだ。



ある意味では急場しのぎとも言えるような人選であったのだが、これがハマって楚の騎兵を破ることに成功。彼とその部隊はそのまま漢の騎兵部隊として各地を転戦することになった。



彼は韓信による斉平定にも参加して大功を立てている。

東從韓信攻龍且・留公旋於高密、卒斬龍且、生得右司馬・連尹各一人、樓煩將十人、身生得亞將周蘭。
(『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝)


注目すべきは、韓信に敗れたあの竜且を実際に斬ったのが潅嬰配下だったらしいことと、潅嬰自らが敵将を捕えていたことだろう。

騎兵ゆえに敵将を追跡し捕捉することは不思議ではないが、潅嬰自身も騎兵として戦い、戦果を上げているのである。
項羽といい劉邦といい、この時代の指揮官は自ら陣頭に立つのが普通だったんだろうか。



そして最終的には「四面楚歌」から逃亡した項羽を追撃してバラバラ死体を持ち帰っているのだから、とんでもなくド派手な活躍である。
韓信とか曹参などと比べて地味な感じがあるのが不思議なくらいだ*1



六月、帝曰「漢與匈奴約為昆弟、毋使害邊境、所以輸遺匈奴甚厚。今右賢王離其國、將衆居河南降地、非常故、往來近塞、捕殺吏卒、驅保塞蠻夷、令不得居其故、陵轢邊吏、入盜、甚敖無道、非約也。其發邊吏騎八萬五千詣高奴、遣丞相潁陰侯灌嬰撃匈奴。」匈奴去、發中尉材官屬衛將軍軍長安
(『史記』巻十、孝文本紀)


劉邦重臣の中でも比較的若い方だったという潅嬰は没するのも比較的遅く、陳平・周勃の次の丞相となっている。

そして、匈奴の不穏な動きに対して文帝は騎兵八万五千を徴発してその指揮官として彼を起用しようとした。

これもなかなか凄いことである。
この数はかなりの規模であるし、高祖の敗戦から呂后の時代まで匈奴にはつっかかっていかなかった漢としては思い切った展開である。
その総指揮官にするというのだから、潅嬰の騎兵指揮能力と信頼のほどがうかがえるというものだろう*2





というわけで、これから「日本人が知っておくべき新・3大漢の騎兵指揮官」のトップは潅嬰にするように。



*1:もちろん、呂后時代やその後のクーデターで活躍した陳平・周勃あたりほど目立っていないのだから仕方がないところである。

*2:但しこの派兵は済北王興居の反乱によって沙汰やみとなる。最初から反乱を誘発するための撒き餌だった可能性もあるだろう。