魯から大河そして東平

夏侯勝字長公。初、魯共王分魯西寧郷以封子節侯、別屬大河、大河後更名東平、故勝為東平人。
(『漢書』巻七十五、夏侯勝伝)


夏侯勝の故郷である魯の西寧郷は、魯王が子供の領地として分地した土地だという*1


そこで、魯国から大河郡へと管轄する郡(国)が変わり、夏侯氏の出身郡は魯国から大河郡へと変更になったのだそうだ。


その後更にその地が東平王の領地となったため、最終的には東平国の人ということになった。




前漢の人間は王国が本郡ということになると仕官に制限がかかったので、管轄が国か郡かは割と大きな違いである。




これはいわゆる「推恩の令」によるものではないかと思うが、やはり一旦分家して子弟を列侯にすると、その土地はもはや完全に王国から離れて郡の支配下に入ったようだ。

*1:いつの誰の事を言っているのかはっきりわからない。『漢書』王子侯表上に見える寧陽節侯恬のことだろうか。