漢の漢たちを語る11「夕べに死すとも」:夏侯勝

前漢の宣帝の頃、夏侯勝という儒者がいた。


彼は『尚書』と五行説に通じ、それらを元に昭帝死後に即位した昌邑王廃立計画を予言して霍光らに驚かれたという怪人物であった。



そんな彼は宣帝が即位すると皇太后14歳の教育役とされ、長信少府・関内侯という高位に上がった。立派に朝廷の重臣である。



宣帝初即位、欲襃先帝、詔丞相御史曰「朕以眇身、蒙遺徳、承聖業、奉宗廟、夙夜惟念。孝武皇帝躬仁誼、窅威武、北征匈奴、單于遠遁、南平氐羌・昆明・甌駱兩越、東定薉・貉・朝鮮、廓地斥境、立郡縣、百蠻率服、款塞自至、珍貢陳於宗廟。協音律、造樂歌、薦上帝、封太山、立明堂、改正朔、易服色。明開聖緒、尊賢顯功、興滅繼絶、襃周之後。備天地之禮、廣道術之路。上天報況、符瑞並應、寶鼎出、白麟獲、海效鉅魚、神人並見、山稱萬歳。功徳茂盛、不能盡宣、而廟樂未稱、朕甚悼焉。其與列侯・二千石・博士議。」
於是羣臣大議廷中、皆曰:「宜如詔書。」
長信少府勝獨曰「武帝雖有攘四夷廣土斥境之功、然多殺士衆、竭民財力、奢泰亡度、天下虚耗、百姓流離、物故者半。蝗蟲大起、赤地數千里、或人民相食、畜積至今未復。亡徳澤於民、不宜為立廟樂。」
公卿共難勝曰「此詔書也。」勝曰「詔書不可用也。人臣之誼、宜直言正論、非苟阿意順指。議已出口、雖死不悔。」
於是丞相(蔡)義・御史大夫(田)廣明劾奏勝非議詔書、毀先帝、不道、及丞相長史黄霸阿縱勝、不舉劾、倶下獄。
有司遂請尊孝武帝廟為世宗廟、奏盛徳・文始・五行之舞、天下世世獻納、以明盛徳。武帝巡狩所幸郡國凡四十九、皆立廟、如高祖・太宗焉。
勝・霸既久繫、霸欲從勝受經、勝辭以罪死。霸曰「『朝聞道、夕死可矣』。」勝賢其言、遂授之。繫再更冬、講論不怠。
(『漢書』巻七十五、夏侯勝伝)


宣帝は即位してほどなく、曽祖父にあたる武帝を尊崇し彼のための廟や舞楽を制定するよう命じた。


それについて議する場で、夏侯勝はおおいに吹き上がったのである。



武帝は確かに四方を征服した功績はありますが、たくさんの人間を死なせて人々の財力を失わせ、度の過ぎた贅沢が原因で流民は増え、イナゴの大群が沸き起こり、地は荒れ果てて人肉さえ喰らいあうような事態となって未だに回復していません。人々は恩沢を全然受けていないのだから、廟や舞楽の制定などには当たりません」


他の大臣たちは「これは陛下の詔ですぞ!」と言うが、夏侯勝はなおも抗う。

「その詔どおりにしてはいけません!人臣たる者、正しい事を述べるべきで、阿諛追従すべきではないのです。ひとたび口に出した事なのだから、私は死をも覚悟しております!」



恐るべき事態となった会議。
会議を主宰する丞相・御史大夫は彼と彼に賛成する黄覇の二人を弾劾した。

皇帝の詔を非難するという最大級の罪状である。



この二人は獄に繋がれたが、そこで黄覇は儒者の夏侯勝に対して「経書を教えてくれ」と頼んだ。

「いやもう死ぬ身だから」と断る夏侯勝に対して、黄覇は「朝に正しい道について聞くことができたら、夕方には死んでしまってもいいじゃん!」という『論語』の一節を引用したので、夏侯勝も折れて獄中で五経の教授を始めたのだった。


彼らが獄を出ることが出来たのは数年後の大赦の時。

それから二人はそれぞれ出世の道を歩んだのだった。



嘗見、出道上語、上聞而讓勝、勝曰「陛下所言善、臣故揚之。堯言布於天下、至今見誦。臣以為可傳、故傳耳。」
(『漢書』巻七十五、夏侯勝伝)


そんな彼だが、意外にもゴマすりの素養もまずまずだった。

宣帝との対話の内容を外部に漏らしたことを宣帝より咎められると、「陛下のお言葉が素晴らしかったので称揚したのです。堯の言葉が現在に至るまで伝えられているように、陛下のお言葉も伝えられるべきだと思い、私が伝えたのです」と答えたという。


先ほどの武帝disと同一人物とは思えない阿諛追従機転ではないか。

さっきの獄中の話で切っておけば美談で終わったのに、とか思ってはいけない。



カタいところとやわらかいところを使い分けられるのが高名な儒者になるために最も必要な条件なのかもしれない。




始、勝毎講授、常謂諸生曰「士病不明經術。經術苟明、其取青紫如俛拾地芥耳。學經不明、不如歸耕。」
(『漢書』巻七十五、夏侯勝伝)


なお、夏侯勝は儒学の弟子たちに対してこんなことを言っていたという。


「士は儒学に通じていない事を悩むものだ。儒学にさえ通じていれば、大臣になることだってイージーモードだ。経書を学んでも上達しないなら、故郷に帰って耕作していた方がいいぞ」


かの大先生が似たような事を言っていたのを思い出す。

命懸けで武帝の事績には反発したこれほどの大儒者が、大臣になるために儒学を学ぶのだと明言する。


当時の儒者はなかなか面白い存在だ。