漢の漢たちを語る10「クッキングされるパパ」:劉太公

漢の高祖、劉邦


その父は『史記』などで「太公」と呼ばれており、本名は不明である。

「執嘉」「煓」といった名も伝わっているが、顔師古先生はそれらに懐疑的だ。


まあ、そこは「太公」と呼べばいいじゃない。




太公は息子の存在がデカすぎて地味な感じだが、彼なりに色んなドラマがあったようである。

劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏、秦滅魏、遷大梁、都于豐、故周巿説雍齒曰「豐、故梁徙也」。是以頌高祖云「漢帝本系、出自唐帝。降及于周、在秦作劉。渉魏而東、遂為豐公。」豐公、蓋太上皇父。其遷日淺、墳墓在豐鮮焉。
(『漢書』巻一下、高帝紀下)


劉邦たちの出身地「豊」に彼ら一族がやってきたのは太公の父の世代ではないかという。

太公自身、幼い頃に戦乱やそれに伴う移住を経験したのかもしれない。



そして、太公といえばあの重要アイテム誕生秘話に大きな関係がある。


これについてはhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20121230/1356793889を読んでもらいたい。

太公は「天子の剣」を渡され、それを息子劉邦に与えたのである。
この時の太公の心境はどうだったのだろうか。
半分本気で「天子の剣」と信じ、「この剣でこのイカレタ時代を切り開いてくれ」なんて思ってたかもしれない。



その一方で、劉邦の母は何故か豊にはおらず、別の地で世を去っている

太公は劉邦の母と離縁したのかもしれない。
このあたり、例の劉邦出生秘話と考えあわせるとちょっといたたまれない昼ドラ展開があったと想像することもできるだろう。



令將軍薛歐・王吸出武關、因王陵兵南陽、以迎太公・呂后於沛。楚聞之、發兵距之陽夏、不得前。
(『史記』巻八、高祖本紀)

楚騎追漢王、漢王急、推墮孝惠・魯元車下、滕公常下收載之。如是者三。曰「雖急不可以驅、奈何棄之?」於是遂得脱。求太公・呂后不相遇。審食其從太公・呂后輭行求漢王、反遇楚軍。楚軍遂與歸、報項王、項王常置軍中。
(『史記』巻七、項羽本紀)

太公は劉邦が挙兵しても地元の沛に残っていたが、劉邦が漢王となって項羽との対決姿勢を強めると捕捉される危険が迫っていた。
そこで劉邦は兵を出して妻呂氏と共に救出しようとしたが、項羽に阻まれてしまう。

そして楚を攻めた劉邦項羽に大敗すると、太公たちは脱出を図るも項羽に捕まってしまうのだった。


當此時、彭越數反梁地、絶楚糧食、項王患之。為高俎、置太公其上、告漢王曰「今不急下、吾烹太公。」漢王曰「吾與項羽倶北面受命懷王、曰『約為兄弟』、吾翁即若翁、必欲烹而翁、則幸分我一桮羹。」項王怒、欲殺之。項伯曰「天下事未可知、且為天下者不顧家、雖殺之無益、祇益禍耳。」項王從之。
(『史記』巻七、項羽本紀)


そして太公は項羽に人質として使われてしまう。


項羽「俺に降伏しないとこいつを煮て食ってしまうぞ」
劉邦「お前と俺は兄弟になった仲(意味深)ではないか。つまり俺の父はお前の父ということだぞ。それでも自分の親を煮て食うっていうなら、俺にもそのスープを一杯分けてくれ」
項羽「」


劉邦の内心がどうかはわからないが、劉邦ははっきりと太公を見捨てたのである。

項伯が言うように、天下を争うような人間は家のことなど顧みない。
そういう人間が天下を争うとも言えるし、領国や臣下といったあまりにも多くのものを背負った者にとってみれば、肉親が人質に取られてもそこから降りるような事はできないということなのかもしれない。



項羽はこのまま煮ても残虐行為の悪名を被るだけだし、煮なければ煮ないで面目丸潰れということになってしまった。

ある意味太公は項羽にダメージを与えたのだ(本人は何もしてないが)。




その後劉邦項羽から太公を取り戻し、項羽を破って皇帝となった。




だが誰よりも尊いはずの皇帝にとって、父という本来頭の上がらない存在がいるというのは少々難しい問題を孕んでいたらしい。

六年、高祖五日一朝太公、如家人父子禮。太公家令説太公曰「天無二日、土無二王。今高祖雖子、人主也。太公雖父、人臣也。奈何令人主拜人臣!如此、則威重不行。」後高祖朝、太公擁篲、迎門卻行。高祖大驚、下扶太公。太公曰「帝、人主也、奈何以我亂天下法!」於是高祖乃尊太公為太上皇 。心善家令言、賜金五百斤。
(『史記』巻八、高祖本紀)


劉邦は太公に対してだけは親子の礼を執ったいた。つまり太公が上位にあったのである。

だがある時に家令(執事)からそこを指摘された太公は劉邦の到来に対してうやうやしくお出迎えをした。
つまり自ら下位であることを示したのである。


息子に対して敢えて臣下としての礼を執るということは、ある意味では屈辱に耐えたと言えるだろう。

太公は天下のため、自分のため、時には自分を卑下することも厭わない人間だった。






太公はなんか妻とドロドロの昼ドラだったり(想像)、人質にされたり、息子にバッサリ見捨てられたり、息子に頭を下げたり、結構波乱万丈な人生だったようだ。
波乱の殆どの原因が息子のような気がするがきっと気のせいだろう。