孔丘先生の災難

墨子曰、孔子厄於蔡陳之間、子路烹豚、孔子不問肉之所由來而食。剥人衣以沽酒、孔子不問酒之所由來而飲之。
詰之曰、所謂厄者、沽買無處、藜羹不粒、乏食七日。若烹豚飲酒、則何言乎厄。斯不然矣。且子路爲人、勇於見義、縦有豚酒、不以義不取之、可知也。又何問焉。
(『孔叢子』詰墨)


孔子こと我らが孔丘先生が晩年の旅烏の時に陳と蔡の間で苦しい目に遭ったというのは『論語』『史記』などからわかることであるが、その際にあったことについて孔丘先生を非難することで有名な墨子一派は、こう言っていたらしい(『墨子』に見える)。




「あの孔なんとか先生は、弟子の子路が入手経路不明の豚を手に入れるとそのことには目をふさいでその豚を食った。子路が追いはぎして得た金で買った酒を持ってくると、そのことには耳をふさいでその酒を飲んだ」




孔丘先生の子孫である孔鮒さんはそれに対し「あの時は酒も食事もままならなかったんだから、豚肉や酒があったら「災難」などと言いませんよ。それと、子路はそんなことやらない」と反論した。




子孫の反論が反論になっているのかということはさておき、あの「ヌッスって名前の泉からは水は死んでも飲まないよ絶対」と豪語していたあの先生が盗品を知らぬふりして消費した、っていうのは真偽不明ながらなかなかのスキャンダルである。


「いかにもやりそう」とか、「いつものミサワ節じゃねーか」とか言ってはいけない



それにしても、子路が色々と未熟者扱いされながらも孔丘先生に愛され続けてたっていうのはこういう汚れ仕事も進んで引き受けたからってのもあるんだろうなあ。
虎眼先生にとっての牛股みたいな。