呂不韋の評価

會日有蝕之、太中大夫蜀郡張匡、其人佞巧、上書願對近臣陳日蝕咎。下朝者左將軍丹等問匡・・・(中略)・・・對曰臣聞秦丞相呂不韋見王無子、意欲有秦國、即求好女以為妻、陰知其有身而獻之王、産始皇帝。・・・
(『漢書』巻八十二、王商伝)


前漢後半、成帝の時の丞相王商を張匡なる人物が批判する際の一節。



彼は王商が自分の娘を皇帝の後宮に入れたということについて、呂不韋と結び付けようとしたようだ。



呂不韋取邯鄲諸姫絶好善舞者與居、知有身。子楚從不韋飲、見而説之、因起為壽、請之。呂不韋怒、念業已破家為子楚、欲以釣奇、乃遂獻其姫。姫自匿有身、至大期時、生子政。子楚遂立姫為夫人。
(『史記』巻八十五、呂不韋列伝)


だが、張匡によれば呂不韋は秦を我が物とするために計画的に自分の子を妊娠した寵姫を秦王に献上したかのように言われているが、『史記』で記されている事情とはずいぶん違っている。



史記』列伝によれば、呂不韋は子楚(始皇帝の書類上の父、秦王)から妊娠していた自分の寵姫をおねだりされたため、損得勘定した上でその寵姫を献上したとされており、当初から秦王の子に自分の種を潜り込ませることを意図していたわけではなかったということのようだ。



この時、子楚もその子も秦王の地位を約束されていた状態ではないので、秦を我が物とすべく妊娠中の寵姫を子楚に送り込むというのは発覚時のリスクを考えたら現実的な策とは思えない。




漢書』にある張匡の発言は、王商を糾弾するために意図的に事実を捻じ曲げたのか、それとも当時は呂不韋に悪意を認める解釈が一般的だったのか。

ここだけでは判断つかない。