突然だが、こんなツイートを拝見した。
曹操の死期。陸機『魏武帝と弔う文』では、劉備を攻めた西行の途中で曹操が死ぬ。『諸葛亮集』にのる諸葛亮『正議』で、曹操は漢中で死ぬ。『魏志』武帝紀は洛陽で死んだことになっているが、これは「公式見解」らしい。だから漢中の劉備戦がやたら短かった?「鶏肋」の逸話も創作とか。笑
— 佐藤ひろおさん (@Hiro_Satoh) 8月 6, 2012
憤西夏以鞠旅、泝秦川而舉旗、踰鎬京而不豫、臨渭濱而有疑、冀翌日之云瘳、彌四旬而成災。詠歸途以反旆、登崤澠而朅來、次洛汭而大漸、指六軍曰念哉。
(『文選』巻六十、陸機、弔魏武帝文)
「西方のヤツに怒りを感じて討伐に出かけたけど、長安のあたりを超えたところで体調不良となり、渭水を渡ろうかってところでマズイ感じになり、早く治らないかなーって願ったけど四十日もしたら体調がすっかり酷くなってしまった。もうヤバイってことで戻って崤山・澠池のあたりを通過し、洛陽に入ったところで危篤状態になってしまい、軍勢の行く末を案じつつおくたばり遊ばされた」
といったところだろうか。
『三国志』武帝紀では漢中を早々に退いた曹操はその足で荊州方面に向かったとされているので、ここの表現とはずいぶん違っている。
陸機が一体何を根拠にしていたのか知らないが、体調不良(高齢で出征先の話なので軽い話ではない)が原因で漢中を早々に退き、劉備に漢中確保を許したというのはつじつまがあう部分ではあると思う。