後漢末の丞相司直とかその辺のことについて

袁紹に自分から仕掛けてから董承・劉備ら三公九卿クラスに背かれていた曹操。許の朝廷の統制と締め付けのため、実質的には自分に直属する監察官を設立した。
それが司直。
官秩・格式では司隷校尉と並ぶ存在だが、司隷校尉といえばほとんどが三輔の方に行っていたわけで、朝廷にいた高級監察官は司直一人。


何もかも司直のお蔭というつもりはないが、司直設置に代表されるように朝廷の支配を更に強めたことが丞相就任、魏公への登位をスムースにしたという側面はあるのではないだろうか。


それだけに、丞相司直が反乱の首謀者一味となっていた吉本の乱は曹操陣営にとって衝撃だったはず。
王必排除に成功していれば、司直の権限で曹操朝臣の弾劾即逮捕などの手を使って朝廷を抑えることもできたのではないか。


もうひとつ衝撃だったであろうことは、そんな要職を曹操が任せたほどの人間が反抗したこと。
少府耿紀もかつて侍中という皇帝側近から皇帝の私財管理者となった人物。これも曹操が反抗的な人物に与えたとは思えない。
曹操が完全に見誤ったか、あるいは彼らが反抗に転じるほどの大事があったということだ。


少府が反乱に加担したということは、万一王必排除に成功した場合に皇帝の私財やら側近やらをかき集めて許県を脱出するのに便宜を図れたということじゃないだろうか。
許の曹操側兵力の元締め王必さえ消えていれば・・・ということになるが。


吉本の乱は丞相長史と丞相司直が争うという「丞相=曹操直下の官同士の内乱」という事も出来る。董承や劉備という同格に限りなく近い者のそれと違い、飼い犬に手をかまれたということなのではないか。
組織が大きくなったからとも言えるだろうし、不満分子を多数抱えて危険な状態だったとも言えそう。


王必死後、曹操が誘導尋問の挙句朝臣なで斬りという凶行に至ったことは、曹操の感情的な問題抜きにしても理解できる。
今まで朝廷を不在にしていても王必がなんとかしていたが、王必が居なくなったことで戦略の変更を迫られた。不満分子をなで斬りし、イエスマンのみにするしか手がなかったのではないか。


いつの間にか王必凄いという話になっている不思議。


そういえば、最高にして最恐の監察官となった丞相司直が曹操への反抗分子になっていたら、反抗分子側はやりやすかっただろうなあ。


昨日(8月1日)に自分でツイートした一連の考えをまとめるため、ツイートをほぼそのままコピペして更新サボった。




これから、各事例などからこれに肉付けしたり修正したり考えを変えたりしていくことになるだろう。