列侯の収入

(張)延壽已歴位九卿、既嗣侯、國在陳留、別邑在魏郡、租入歳千餘萬。延壽自以身無功徳、何以能久堪先人大國、數上書讓減戸邑、又因弟陽都侯彭祖口陳至誠。天子以為有讓、乃徙封平原、并一國、戸口如故、而租稅減半。
(『漢書』巻五十九、張延寿伝)


前漢武帝の時の酷吏張湯の孫に当たる張延寿は、父張安世が宣帝擁立に絡んだことで大身の列侯となり、この世の栄華を極めた存在となったが、本人はあくまで謙虚であった。

おそらく、悪目立ちして皇帝に畏れられたり大臣に足を引っ張られたりして失脚するのを避けようとしていたのだろう。




彼の列侯の領地は陳留郡と魏郡内とに分かれており、彼の収入となる租税は年に千万銭以上であったが、張延寿は自ら領土の戸数を減らしてほしいと申し出た。


そこで宣帝は領土を交換し、戸数はそのままで彼の領土を平原郡内にまとめてやった。

租税はこれによって半減したという。




おそらく、張延寿の領土の戸数は維持することで列侯としての「格」を落とさないようにしつつ、租税は半分になったことで敢えて収入を減らそうとする張延寿の気持ちにも報い、更には漢王朝にとっても列侯に取られる租税を減らした、即ち国庫に入る租税を増やすという一挙三得の措置だったのだろう。




当時の列侯の租税収入は実際に領土とされている土地の租税そのものであり、そこの実際の租税収入額によって変動してしまうことや、列侯の租税収入額など、なかなか興味深い話*1

*1:・・・と思うのは私だけかもしれないが。