左袒と右袒

(呂)祿遂解印屬典客、而以兵授太尉(周)勃。勃入軍門、行令軍中曰「為呂氏右袒、為劉氏左袒。」軍皆左袒。勃遂將北軍
(『漢書』巻三、高后紀)


前漢呂后死後、太尉周勃は呂氏から権力を奪うため、呂禄の握っていた漢の北軍(中央軍)の兵権を奪回した。

そして軍中に入り、将兵に対して「呂氏の味方となるものは服の右肩をはだけろ。劉氏の味方となるものは服の左肩をはだけろ」と言った。
将兵はみな左肩をはだけた。
つまり呂氏ではなく劉氏の名の元にやってきた周勃の味方をするということである。



これが「左袒」という故事の元であるが、これはただ左右で区別するために片側だけ肌脱ぎするよう命じたのではないと思う。


凡以禮事者左袒、若請罪待刑則右袒。
(『礼記』檀弓下、疏)


儀礼の中で肌脱ぎするときは左をはだけ、罰を乞い、刑を受けるのを待つという場合に右をはだける、というのが古代の礼であったようなのである。


もちろん前漢初期にこれが浸透していたという保証はないのだが、この規定がこの時代にも何らかの形で生き残っていたとすれば、「右袒」とは「刑を受ける」という意味だと認識されたことになる。



つまり、周勃は敢えて「右袒」という言葉を使うことで、「呂氏に味方する者は処刑する。あとは・・・わかるな?」という無言の圧力をかけたことになるのである。