曹操怒りの誘導尋問2

山陽公載記曰、王聞王必死、盛怒、召漢百官詣鄴、令救火者左、不救火者右。眾人以為救火者必無罪、皆附左。王以為「不救火者非助亂、救火乃實賊也」。皆殺之。
(『三国志武帝紀注引『山陽公載記』)

以前にも取り上げた後漢末の吉本の乱の戦後処理について。

曹操は腹心王必を失った怒りから、漢の百官を呼び出して反乱で起こった出火について消火に当たったと言った者を皆殺しにした、という話がある。



世語曰、訒艾少為襄城典農部民、與石苞皆年十二三。謁者陽翟郭玄信、武帝監軍郭誕元奕之子。建安中、少府吉本起兵許都、玄信坐被刑在家、從典農司馬求人御、以艾・苞與御、行十餘里、與語、悦之、謂二人皆當遠至為佐相。艾後為典農功曹、奉使詣宣王、由此見知、遂被拔擢。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝注引『世語』)

その吉本の乱で刑罰を受けて官位を失ったらしい人物の一人に、陽翟の郭玄信*1がいた。
おそらく、当時漢の謁者だったものが乱のせいで官位を失ったのだろう。


上記に見える曹操の戦後処理が仮に事実だとすれば、郭玄信は「消火を手伝いませんでした」と正直に言ったために命は助かったのだろう。


それでも彼は罰を受け官位は失っているのだから、上記の曹操の問いはどっちを選んでも刑罰は逃れられなかった(問答無用で殺されるか殺されない程度の罰で済むかの問題)ということだったのかもしれない。*2


*1:郭嘉と同県の出身。

*2:しつこいようだが、そもそも上記エピソードの信憑性という問題があるのは言うまでもない。