明帝の治世

(明)帝性褊察、好以耳目隱發為明、故公卿大臣數被詆毀、近臣尚書以下至見提拽。嘗以事怒郎藥粔、以杖撞之。粔走入牀下、帝怒甚、疾言曰「郎出!郎出!」粔曰「天子穆穆、諸侯煌煌。未聞人君自起撞郎。」帝赦之。
朝廷莫不悚慄、爭為嚴切、以避誅責。唯(鍾離)意獨敢諫爭、數封還詔書、臣下過失輒救解之。
(『後漢書』列伝第三十一、鍾離意伝)


後漢の明帝はスパイ政治大好きで、大臣でもスキャンダルを暴かれ、近臣はどっか連れて行かれたりした。

またある時、明帝は薬粔という郎を怒り、杖で打ちすえようとして彼を追いかけまわし「出てこい木端郎官!」などと言ったこともあった*1



朝廷はそんな君主を恐れて身を正し、争って厳格な態度を貫いたが、尚書僕射の鍾離意だけは明帝に諫言し、時には処分の詔を差し戻してでも臣下が過失で厳しく罰せられるのを助けたという。




後漢明帝の治世とか、尚書僕射が皇帝の詔を正式に発布せずに差し戻している件とか、なかなか興味深い話。


だが一番興味深いのはわざわざ郎官を追い掛け回す皇帝陛下の図。

*1:薬粔は隠れながら「昔の名君の時代には君主が郎を打ちすえるなんて聞いたことないですよ?」と言い返したので許された。