袁紹忠臣説4

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20111208/1323273282の続き。



【その8】

及獻帝西都、復拜議郎、稍遷太僕。及李傕專政、使太傅馬日磾撫慰天下、以(趙)岐為副。日磾行至洛陽、表別遣岐宣揚國命、所到郡縣、百姓皆喜曰「今日乃復見使者車騎。」

是時袁紹曹操公孫瓚冀州、紹及操聞岐至、皆自將兵數百里奉迎、岐深陳天子恩徳、宜罷兵安人之道、又移書公孫瓚、為言利害。紹等各引兵去、皆與岐期會洛陽、奉迎車駕。岐南到陳留、得篤疾、經渉二年、期者遂不至。
(『後漢書』列伝第五十四、趙岐伝)


劉虞擁立計画頓挫後、袁紹冀州牧となった。

そして長安では董卓が死亡し、献帝は相変わらず傀儡同然ではあったが李傕ら複数の将のパワーバランスの上にあり、主権を回復するという上ではチャンスが生まれつつあった。


思うに、漢王朝再興を願う袁紹にとってこれは転機であったろう。

董卓の軛から脱したのなら、長安の皇帝(献帝)は単なる傀儡ではなくなる余地が生まれる。
そうなれば、袁紹が奉じるべき、賢明なる皇帝として献帝を認めることができるということなのだ。

自分が立てた皇帝の名のもとに諸将を糾合し天下をまとめ従わぬ者を討つことから、自らも軍閥となって周囲を併呑するとともに長安の皇帝を迎え入れて天下をまとめることへ。


忠臣袁紹の戦略はこういったものになったのではないか。



だが袁紹の事業を阻む者がいた。

公孫瓚である。

袁紹曹操と共に公孫瓚と闘っていた。

これ自体は天下のための戦いと言えるかどうか怪しい私闘に見えるかもしれないが、公孫瓚は最終的に皇室最大の大物劉虞を殺害するような人物だし、その同盟者陶謙といえば天子を称した闕宣と組むような不届き者と記録されている。

袁紹からすれば、不忠者を征伐する戦いだったのであろう。

(初平)四年初、天子遣太僕趙岐和解關東、使各罷兵。
(『後漢書』列伝第六十四上、袁紹伝)


そんな折、上記のとおり長安の皇帝から天下を安んじるための使者趙岐が訪れた。

袁紹曹操もこの使者を自ら迎えたとされている*1


そこで袁紹らは兵を引くと共に、洛陽に集合し皇帝をお迎えすることを約束したが、趙岐が二年待っても彼らはやってこなかった、という。



袁紹らが来なかったというのは、公孫瓚陶謙との戦いでそれどころではなかったということなのだろう。


だがここで重要なのは、袁紹が趙岐の献帝の名の元に行われる和睦勧告に服する姿勢を示し、洛陽集合にも同意したということである。


袁紹献帝を認めず、自らの天下を本気で狙っているのであればここまでするのは奇妙とも言える。

何しろ、初平三年頃の于毒との戦いでは袁紹献帝の名の元任命された冀州牧壺寿を斬首しているのだから。今更服従するのはどういうことなのか。



だが、この転換こそ、袁紹の皇帝への態度を示すものと考えることができるかもしれない。

壺寿斬首の時、彼を任命したのは皇帝とはいいながら事実上は董卓である。

しかし趙岐の時には董卓はいない。


袁紹は廃立を実行し簒奪の危機さえ垣間見えた董卓は認める事が出来なかったし、その傀儡皇帝に従うわけにもいかなかった。


だが董卓から自由になったのであれば、事実上は李傕らの影響下であったとはいえ簒奪の危機に直結もせず、袁紹としてもこの皇帝を認める余地があったということなのである。



賢明な皇帝を補佐する人間として生きる。
漢王朝を守る。

蓋勲の言葉を守ろうとしていたからこそ、袁紹は一旦は献帝を否定し、後から認めるようになったのではないだろうか。



*2

*1:三国志武帝紀・袁紹伝には見えないが。『三国志武帝紀の編集態度から考えると、漢の皇帝に対する忠勤を示すエピソードが外れているというのはちょっと興味深い。

*2:今回の記事は、擁護派氏@yougoha、徳操氏@daradara3594らのツイッターでの発言が大いに参考になったことを記しておく。