義陽郡メモ

分襄陽郡之鄀葉縣屬義陽郡。
(『三国志』巻三、明帝紀、景初元年)

武帝平呉、分南郡為南平郡、分南陽立義陽郡、改南郷為順陽郡、又以始興・始安・臨賀三郡屬廣州、以揚州之安成郡來屬。
(『晋書』巻十五、地理志下、荊州

魏武定霸、三方鼎立、生靈版蕩、關洛荒蕪、所置者十二、新興・樂平・西平・新平・略陽・陰平・帶方・譙・樂陵・章武・南郷・襄陽。所省者七、上郡・朔方・五原・雲中・定襄・漁陽・廬江。而文帝置七、朝歌・陽平・弋陽・魏興・新城・義陽・安豐。明及少帝筯二、明、上庸也。少、平陽也。得漢郡者五十四焉。
(『晋書』巻十四、地理志上)

魏延訒艾など三国志ッ娘大好きな人物の出身地として知られる義陽郡。

この郡名は前漢後漢には無かったもので、後漢末から三国時代、晋代にかけて新設されたものなのは明らかであるが、その設置時期については良くわからない。



なにしろ、同じ『晋書』地理志の中で、一方では魏の文帝時代に義陽郡が置かれたと書かれながら、もういっぽうでは晋の武帝が呉を平定してから義陽郡が置かれたとも書かれているのだ。


上記の『三国志』明帝紀を読む限り、三国時代の魏には魏陽郡が置かれていたのは間違いない。
つまり、魏文帝時代に置かれたというのは信じられる。

だが、晋武帝の時に置かれたというのを一方的に否定する必要もないだろう。

おそらく、どこかの時期に一旦廃止になった時期があったのだと思う。



いつ廃止されたのか、とかはよくわからない。



あと、『三国志楊戯伝所収の『季漢輔臣賛』にもしばしば「義陽」の地名が出てきているので、もしかしたら蜀でも義陽郡は置かれていたのかもしれない。