『漢書』韋玄成伝フィナーレ

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110624/1308841390の続き。というかまとめ。



前漢後半における皇帝廟や祭祀の制度改革は、おおむね祭祀を縮小する方向に進んだ。
郡国廟廃止にしろ、皇帝以外の祭祀の縮小廃止にしろ、皇帝廟の一部廃止にしろ、どれも祭祀や維持にかかる経費を大きく削減することになっている。

イメージはむしろ逆だが、儒者たちによる一連の改革は祭祀制度を縮小しているのだ。



これはつまり、「一歳祠、上食二萬四千四百五十五、用衛士四萬五千一百二十九人、祝宰樂人萬二千一百四十七人、養犧牲卒不在數中」などと書かれるようにそれまで費やされてきた莫大な費用をカットしたいという政府側の意向と、「天子七廟」などの儒者の理念が合致したということである。


影響力のある儒者が政府のトップに座し、かつ皇帝もまた儒者に理解があった元帝の時代、儒者の政権が始めたのは「冗費削減」という極めて現実的な政治改革だった。
当時の儒者は決して空虚な理念を振りかざす存在ではなく、極めて現実的な政治問題を解決することを期待された集団だったのである。
ここで一定の成果を上げることができたからこそ、それ以降もしばしば儒者が政府のトップに就くようになったのかもしれない。


そしてこの財政問題に端を発したと思われる祭祀制度、宗廟制度改革は、その後の歴代王朝の制度のスタンダードとなったと考えていいだろう。
「天子七廟」「三昭三穆」や、「○宗」は人数制限なし、というルールなどはたぶんこの時に決まってそれ以降も継続していたことである。



最後に、前回までの抄訳らしきものは超抄訳であってかなり適当だったり分からなかったり面倒だったりするところはこっそり飛ばしたりしているし、たぶん誤りもかなり含んでいるので、よもやいないとは思うが鵜呑みにしたりコピペしたりはしないようにお願いします。
まあこれは今回だけのことでもないですが。