ブラック上司に仕えてるんだが、俺はもう限界かもしれない

(王)經為司隸校尉、辟河内向雄為都官從事。王業之出、不申經意以及難。經刑於東市、雄哭之、感動一市。
(『三国志』巻九、夏侯玄伝注引『世語』)

姜維に敗れたことでも有名な魏の王經。
彼は高貴郷公の逆クーデター事件の際に処刑されることとなったが、その際に彼が門下に招いた向雄という男は彼のために声をあげて泣いた(当時の死者を悼む礼の一種)という。

反乱者として処刑される者のために泣くというのは一緒に斬られる危険を顧みないということであり、誰にでもできることではない。


この向雄はどうなったかというと、命を助けられてある人物に拾われていた。

漢晉春秋曰、文王聞鍾會功曹向雄之收葬會也、召而責之曰「往者王經之死、卿哭于東市而我不問、今鍾會躬為叛逆而又輒收葬、若復相容、其如王法何!」雄曰「昔先王掩骼埋胔、仁流朽骨、當時豈先卜其功罪而後收葬哉?今王誅既加、於法已備、雄感義收葬、教亦無闕。法立於上、教弘於下、以此訓物、雄曰可矣!何必使雄背死違生、以立於時。殿下讎對枯骨、捐之中野、百歲之後、為臧獲所笑、豈仁賢所掩哉?」王悦、與宴談而遣之。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝注引『漢晋春秋』)

向雄は鍾会の功曹*1になっていた。
そしてまた鍾会の反乱と誅殺に出くわし、向雄はまた主鍾会の死体を収容し葬儀を行った。
反逆者を弔うというのもしばしば禁止されたことである。彼は敢えて危険を冒して主を弔ったということになる。



短い間に二度も誅された主のために命を張る羽目になった向雄の心境はいかに。
「おいおい、またかよ!」って思ったかもしれない。

*1:『晋書』向雄伝では鍾会司隷校尉の時に都官従事に招いたことになっている。