諸葛誕のせい

曹爽以欽郷里、厚養待之、不治(文)欽事。復遣還廬江、加冠軍將軍、貴寵踰前。欽以故益驕、好自矜伐、以壯勇高人、頗得虚名於三軍。
曹爽誅後、進欽為前將軍以安其心、後代諸葛誕為揚州刺史。自曹爽之誅、欽常内懼、諸葛誕相惡、無所與謀。會誕去兵、毌丘儉往、乃陰共結謀。戰敗走、晝夜間行、追者不及、遂得入呉、孫峻厚待之。
(『三国志』巻二十八、毌丘倹伝注引『魏書』)

(文)欽欲盡出北方人、省食、與呉人堅守、(諸葛)誕不聽、由是爭恨。
欽素與誕有隙、徒以計合、事急愈相疑。欽見誕計事、誕遂殺欽。
(『三国志』巻二十八、諸葛誕伝)

魏の文欽は毌丘倹と共に司馬師に対し挙兵したが失敗、呉に逃げ込んだ。
そして次に魏で反乱を起こした諸葛誕への呉からの援軍に文欽も加わり、共に司馬氏の兵と闘った。

だが、文欽と諸葛誕は昔から仲が悪く、包囲され兵糧が不足するという危険な状況下にも関わらず昔からの険悪なムードが蘇り、ついに諸葛誕は文欽を殺害するに至った。


文欽は諸葛誕に限らず、魏でも呉でも多くの者から嫌われていた問題児だったらしいことと、文欽が廬江太守であった時に諸葛誕が揚州刺史、都督揚州諸軍事であって上下関係にあったこと、親の代からの武人である文欽と名士肌の諸葛誕という相容れない関係っぽかったことなど、この不仲の理由は色々考えられるだろう。


そして、この関係は次の代まで続く。

是日誅賞三百餘人、皆自(東安王)繇出。東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺、繇慮俶為舅家之患、是日亦以非罪誅俶。
(『晋書』巻七十、東安王繇伝)

文欽の子、文俶。
文鴦と呼んだ方が分かる人が多いだろう。


彼は司馬氏に降伏して以来晋の将だったわけだが、一方で晋の皇族である東安王司馬繇(元帝司馬睿の叔父)は諸葛誕の外孫であった。母は諸葛誕の娘だったということである。


つまり、文鴦と司馬繇は文欽と諸葛誕の恩讐を引きずっていたのである。



八王の乱の中で一時力を得た司馬繇は、罪をかぶせて文鴦を殺してしまった。
文欽は自分の命のみならず息子も諸葛誕のせいで失うこととなった。

文欽親子ちょっと可哀想。