燕王の住まい

燕王宇字彭祖。建安十六年、封都郷侯。二十二年、改封魯陽侯。黄初二年、進爵為公。三年、為下邳王。五年、改封單父縣。太和六年、改封燕王。
明帝少與宇同止、常愛異之。及即位、寵賜與諸王殊。青龍三年、徴入朝。景初元年、還鄴。二年夏、復徴詣京都。冬十二月、明帝疾篤、拜宇為大將軍、屬以後事。受署四日、宇深固讓。帝意亦變、遂免宇官。三年夏、還鄴。景初・正元・景元中、累筯邑、并前五千五百戸。常道鄉公奐、宇之子、入繼大宗。
(『三国志』巻二十、武文世王公伝、燕王宇伝)

曹操の子の一人、燕王曹宇。魏の最後の皇帝曹奐の実父。


彼は甥に当たる明帝曹叡と仲が良く、曹叡即位後は彼から厚遇された。


曹宇は曹叡在位時に皇帝の元へ召還されることが二回あった。
一度は青龍三年、もう一度は景初二年。


どちらも最終的には戻されているわけだが、どちらも「還鄴」となっている。
燕王なのだから燕に領国があるはずで、「還る」のも燕ではないのかと思ったら、そうではなく魏の都の一つ鄴に「還る」というのは何かおかしくないだろうか。


これは燕王宇だけの特別待遇なのだろうか。
それとも燕王の領国は鄴にあったのだろうか。



楚王曹彪などの例を考えると魏の諸侯王は領国に住んでいたように思われるのだが、曹宇はどうもよくわからない。