三国呉の吾粲は同じ郡(呉郡)の陸遜、卜静らと比肩する名声の持ち主だったという。
ではその頃の呉郡の名声トップはこの集団だったのか。
いやちがう。
顧雍の子、顧邵。
彼は伯父陸績と並ぶ名声を博し、彼らに次ぐのが陸遜・張敦・卜静らであったという。
つまり吾粲のランクは第二集団であったようだ。
(なお吾粲は顧邵の抜擢を受けている。)
ちなみに張敦・卜静は早死にしたようだ。
と同時に、かの陸遜も最初からトップクラスの名声を得ていたというわけでもなく、若い頃の名声という点では陸績・顧邵という親戚の後塵を拝していたということでもあるのだろう。
「遜年長於康子績數歳、為之綱紀門戸。」(『三国志』陸遜伝)と、陸康亡き後に陸康の子陸績に代わり一族を代表したらしい陸遜が、世間の評判では陸績に劣っていたというのは興味深いところだ。