火と水

初、以呂壹姦罪發聞、有司窮治、奏以大辟、或以為宜加焚裂、用彰元惡。權以訪(闞)澤、澤曰「盛明之世、不宜復有此刑。」權從之。
(『三国志』巻五十三、闞沢伝)

三国呉の闞沢は、かの呂壹の処刑について主孫権より諮問を受け、「今の盛んなる治世にそのような酷い処刑法はあるべきではありませんな」と答えたという。


冨谷至氏の『中国古代の刑罰』などが詳しいが、当時の律令に規定する処刑法には斬首、腰切りがあるが、車裂きや火刑は無い。
それらは通常の処刑法にはない、より酷刑なのである。


ここからは、以下のことが読み取れる。


呂壹の処刑について、おそらく呉の規定にもないであろう火刑・車裂きを用いようと主張した者がいたこと。
もちろん、それは呂壹の施策に反対し弾劾した側から出されたものだろう。



また、この後には律令を外れたと思われる処刑法を執行された者が現れる。

時全寄・呉安・孫奇・楊竺等陰共附(孫)霸、圖危太子。譖毀既行、太子以敗、霸亦賜死。流竺屍于江、兄穆以數諫戒竺、得免大辟、猶徙南州。
(『三国志』巻五十九、孫覇伝)

かの二宮事件で有名な楊竺である。
彼は屍を長江に流されたという。
これは死体が死後の世界で復活すると考えていたという当時の死生観からすれば、死体を消滅させてしまうことなので物凄い極刑である。火刑に勝るとも劣らないのではなかろうか。

闞沢が死んでしまっていたのでもはや反対する者もいなかったのか、賛成派の勢いが強かったのか、それとも孫権自身も極刑に積極的だったのか、楊竺はこの刑を実際に執行されたようだ。



この二人が通常ではない極刑を受け(そうになっ)たことは、単なる偶然の一致なのだろうか。

それとも、同じような敵対勢力を持ち、同じように失脚し、同じ勢力から同じように極刑を求められたのだろうか。