後漢末以降の合浦郡

桓帝分立高興郡、靈帝改曰高涼。
(『晋書』巻二十、地理志下、交州)

合浦郡
高涼、建安二十五年、孫權立高梁郡。
(『続漢書』志二十三、地理志五、交州)

是歲、改合浦為珠官郡。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武七年)

交阯刺史部、いわゆる交州については、後漢後半あたりから何度か州郡の改変があったらしい。
まあ郡の細分化は後漢末などに各地で起こっているので珍しくはないのだが。


ただ、これによると桓帝時代に独立し霊帝の時に改名した高涼(高興)郡が、建安末に孫権によってまた立てられているらしいことと、孫権独立後に合浦郡が丸ごと珠官郡と改名されたように見えることが気になる。


合浦太守といえばかの士燮の弟士壹というのがいたが、何か彼の動向と関係あるのだろうか。
もっともこのころ士壹は既に士燮死後の士氏の乱後で呉に降伏しており、もしかすると既に別件で処刑された後かもしれない。関係ないか。