巴郡蛮と高祖の功臣

及秦惠王并巴中、以巴氏為蠻夷君長、世尚秦女、其民爵比不更、有罪得以爵除。其君長歲出賦二千一十六錢、三歲一出義賦千八百錢。其民戸出幏布八丈二尺、雞羽三十鍭。漢興、南郡太守靳彊請一依秦時故事。
(『後漢書』列伝巻七十六、南蛮伝)

巴郡蛮の続き。

巴氏が長となった巴郡蛮は秦の支配下に入った。
ただ、長の巴氏は秦の女性を娶り、その民も「不更」*1相当の爵位を持つものとされ、何らかの罪を爵位と相殺できたという。
つまり彼らはそれなりに優遇されたのである。

漢になってもその措置は変わらず、おそらくはその優遇ゆえに前漢時代はあまり総騒動もなく済んでいたのだろう。



ちなみに南郡太守だったという靳彊は漢の高祖の護衛を務めた人物で列侯となった功臣。

沛公則置車騎、脫身獨騎、與樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等四人持劍盾歩走、從酈山下、道芷陽輭行。
(『史記』巻七、項羽本紀)

あの鴻門の会の後必死で項羽より遠ざかる高祖に同行した栄えあるメンバーである。
彼は対項羽戦後もこういった形で名を残していた。

*1:二十等爵の第四級。