三国鼎立

桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。
建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帯方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帯方。
景初中、明帝密遣帯方太守劉繒・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。
(『三国志』巻三十、東夷伝

後漢末から三国時代にかけての遼東から韓国方面の情勢について。


遼東に割拠した公孫康は混乱に乗じて成長した韓濊に対抗し、遼東郡の東側にある楽浪郡を更に分割して帯方郡を新設した。どうやら、韓国方面に対する窓口、あるいは緩衝地帯(前線基地)にしていたように思われる。
公孫氏は以前に述べたように*1州をオリジナルで作っているが、同じように郡についてもオリジナリティを発揮していた。


そして魏の時代になると、明帝は公孫氏へ対抗するために魏の帯方太守、楽浪太守を立てて密かに派遣し、海越えルートによってその二郡を平定したという。
景初年間ということは魏が遼東公孫氏を滅ぼす時の話である。司馬懿らの陸上ルートとは別に、この二太守が後方を攻めていたということなのだろう。



これまで自分は呉が遼東にまで兵を派遣できる状態にあったと述べたが、魏も完全に制海権を握られていたというわけでもなかった。


後漢末以来、渤海近辺から青州沿岸部の海域を巡っては、魏、呉、燕の三国による鼎立状態だったのかもしれない。