禹と始皇帝

始秦時望氣者云「五百年後金陵有天子氣」、故始皇東遊以厭之、改其地曰秣陵、塹北山以絶其勢。及孫權之稱號、自謂當之。孫盛以為始皇逮于孫氏四百三十七載、考其暦數、猶為未及。元帝之渡江也、乃五百二十六年、真人之應在于此矣。
(『晋書』元帝紀)

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100827/1282838999ブコメにてid:mujin氏が指摘していた「金陵」の件。
秦の始皇帝は「五百年後に金陵に天子があらわれるやも・・・」ということで自らが出向いてそれを鎮めたという。
自分の王朝を永続させんとした始皇帝らしいといえばらしい。

過丹陽、至錢唐。臨浙江、水波惡、乃西百二十里從狹中渡。上會稽。祭大禹、望于南海、而立石刻、頌秦徳。
(『史記』秦始皇本紀、始皇三十七年)

始皇帝は確かに会稽に行幸し、禹を祀ると共に秦の徳を称える石碑を立てている。ちなみにこの年に始皇帝は死んでいる。

なぜ禹を祀るかというと、天子となって各地を巡った禹が死んだのがこの会稽の地だとされているのである。

十年、帝禹東巡狩、至于會稽而崩、以天下授益。三年之喪畢、益讓帝禹之子啓、而辟居箕山之陽。
(『史記』夏本紀)


会稽の人にとって、禹は特別なゆかりのある人物なのだ。
それと始皇帝が同格に祀られていたというのはどういうことだろう。

もしかすると、天子としてこの地を訪れたのは始皇帝が最後なのではないだろうか。
各地を自ら転戦している漢の高祖、各地を巡った武帝も会稽には足を踏み入れていないようだ。見落としているだけかもしれないが。

会稽の人間にとっては、天子という存在の威厳は始皇帝によって知らされ、それ以降上書きされていないのだ。
だから、王朗がイチャモン付けたように悪評があることは知識として知っていても、先祖が肌で感じた偉大さを代々聞かされてきたであろう会稽の人間は、始皇帝祭祀を変えようと思わなかったのかもしれない。