関中諸将

魏略曰、劉雄鳴者、藍田人也。少以采藥射獵為事、常居覆車山下、每晨夜、出行雲霧中、以識道不迷、而時人因謂之能為雲霧。郭・李之亂、人多就之。建安中、附屬州郡、州郡表薦為小將。馬超等反、不肯從、超破之。後詣太祖、太祖執其手謂之曰「孤方入關、夢得一神人、即卿邪!」乃厚禮之、表拜為將軍、遣令迎其部黨、部黨不欲降、遂劫以反、諸亡命皆往依之、有衆數千人、據武關道口。太祖遣夏侯淵討破之、雄鳴南奔漢中。漢中破、窮無所之、乃復歸降。太祖捉其鬚曰「老賊、真得汝矣!」復其官、徙勃海。時又有程銀・侯選李堪、皆河東人也、興平之亂、各有衆千餘家。建安十六年、並與馬超合。超破走、堪臨陳死、銀・選南入漢中、漢中破、詣太祖降、皆復官爵。
(『三国志張魯伝注引『魏略』)

十七年、太祖乃還鄴、以淵行護軍將軍、督朱靈・路招等屯長安、撃破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超餘黨梁興於鄠、拔之、斬興、封博昌亭侯。
(『三国志夏侯淵伝)

後漢末の関中にいた諸将の一人、劉雄鳴。(『三国志夏侯淵伝の「劉雄」は同一人物のことだろう)
彼は郭・李の乱で頭角をあらわし、建安年間は州郡に付いたというから、司隷校尉鍾繇などに従っていたのだろう。
立場的には馬騰に近いものだったと思われる。

しかし馬超らの反乱の際には馬超らに付こうとせずに馬超に攻められて曹操の下へ降り、曹操に大歓迎された。
だが、劉雄鳴が自分の部曲を迎えに行くと、部曲は降伏しようとせず、逆にリーダー劉雄鳴の方を曹操から離反させて武関へ続く道の入り口を占拠したのだった。
夏侯淵によって掃討されると漢中に逃げ、漢中も曹操の手に落ちると再度曹操に降伏した。


注目したいのは、劉雄鳴の部曲は馬超に攻撃され、劉雄鳴本人が曹操への降伏を決めているはずなのに、曹操への降伏・臣従を拒んでいることである。
劉雄鳴は長年司隷校尉鍾繇に従属していたようだが、それでも曹操本人に従うのはまた違うのだろうか。
曹操だから嫌われたのか、関東の軍が侵略してきていると感じているから反抗的なのか、それとも別の事情があったのかはっきりしないが、馬超たち関中諸将といい、当時の関中は曹操の動向にきわめて敏感であったようだ。


長安に皇帝がいた時は関中諸将は皇帝おひざ元、ある意味正規軍であった。
皇帝が逃げてからも司隷校尉鍾繇らは李・郭ら以外の諸将については存在を認めて緩やかに統率することに終始し、既得権益を侵すことはあまりなかったのだろう。
しかし、漢中攻め問題以降、関中諸将は曹操侵略の危機に直面して抵抗し、そして敗れていった。一部の上手くやった者以外は、関中の人間は敗者であり征服された側なのだ。

諸葛亮のいわゆる北伐は、彼ら関中諸将の残党や征服された屈辱を胸に抱く関中の人々にとっても、捲土重来の機会だったのではなかろうか。