さかのぼり前漢情勢24

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漢の武帝の天漢年間の前は太初。

太初元年は、制度や暦法の点で大変重要な年であった。

夏五月、正曆、以正月為歲首。色上黃、數用五、定官名、協音律。
(『漢書武帝紀、太初元年)

それまでの漢の一年は十月からスタートし、九月で終わる。
なんか変な感じだが、実際そうなんだから仕方が無い。
これを改めたのがこの時なのである。


そして、もう一つは官名を改めたこと。

漢王朝の大臣、九卿の郎中令を光禄勲、中尉を執金吾などといった雅名にしたのである。
これは漢王朝の権威付けと同時に、諸侯王と漢の皇帝の間に一線を引いたという意味があったと思われる。
それまで、諸侯王には郎中令、内史などの漢の大臣と同じ名前の官がいたのだが、漢の宮殿警護は光禄勲、諸侯王の宮殿警護は郎中令というように、この改称によって明確に区別されるようになったのだ。
皇帝と諸侯王の実力の差が決定的に開き、もはや同格の名称は許されなくなったということだろう。
漢初から続いていた諸侯の削弱政策がいよいよ完成したのである。


そして太初年間は、外征面でも重要な契機であった。

秋八月、行幸安定。遣貳師將軍李廣利發天下讁民西征大宛。
(『漢書武帝紀、太初元年)

李広利が西域に出征した。
あの「汗血馬」を争った戦争である。

四年春、貳師將軍廣利斬大宛王首、獲汗血馬來。作西極天馬之歌。
(『漢書武帝紀、太初四年)

元年に出発した軍が戻ってきたのは四年であった。
その間、敦煌に着くまでに兵が四散したために罪人や被差別者を徴発して援軍にしたり、匈奴戦線が緊迫したり、武帝が勝利するまで帰還を許さなかったりと、なかなかに酷いことになったが、李広利はなんとか大宛の王の首を取り「汗血馬」を連れて帰ってきた。

大宛は弱いから漢兵三千もあれば勝てる、などと言われていたものの、そこに行くまでがただごとではなかったのである。


この大宛征服は、明らかにコストがかかりすぎであったが、では全くの無駄、失敗だけだったかといえばそれはちょっと違うと思う。

而拜習馬者二人為執驅馬校尉、備破宛擇取其善馬云。
(『漢書』李広利伝)

漢は大宛に勝っても馬三千匹しか手に入れられなかった、などと言われるが、漢はこの軍にわざわざ良馬を選別させる者を従軍させている。もともとの「汗血馬」奪取という目的にもあるように、漢は馬を手に入れることが最大の目的であった。
これは武帝の自己満足ではないのだろう。

宛別邑七十餘城、多善馬。馬汗血、言其先天馬子也。
(『漢書』西域伝上)

大宛は良馬の産地であった。武帝はまず金で良馬を手に入れようとしたが、大宛王が拒絶したために武帝が征服を決意したのである。
おそらくは、良馬生産を主要産業としている大宛に対し、漢はその企業秘密を強奪せんとした、ということだろう。
馬は何十万匹と必要なわけではないのだ。
繁殖用の馬がいればいいのである。
サラブレッドが三頭から繁殖したというのと同じ事だ。

将来的に西域に覇を唱え、匈奴に対しても優位に立つためには、どこかで大宛を討ち「汗血馬」の種を奪取する必要があったのだろう。
犠牲が大きすぎたような感は否めないが、その成果が宣帝時代の西域制覇へと繋がるのではないだろうか。


後の時代のためにはやっておくべきだった。しかし犠牲を払いすぎた。
西域征服戦は若い頃からの武帝の政策の縮図のようである。