さかのぼり前漢情勢11

みんなもう読んでないかもしれないhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100211/1265863446の続き。


元帝は音楽や宴会が好きだったが、儒学も好きだった。

元帝好儒、貢禹・韋玄成・匡衡等相繼為公卿。禹建言漢家宗廟祭祀多不應古禮、上是其言。後韋玄成為丞相、議罷郡國廟、自太上皇・孝惠帝諸園寝廟皆罷。後元帝寝疾、夢神靈譴罷諸廟祠、上遂復焉。後或罷或復、至哀・平不定
(『漢書』郊祀志下)

そして、その当時政界に地位を得た儒者たちは礼制改革を企んでいた。
漢王朝の祭祀は古典が記すところの廟制、礼制に合わないというのである。

儒者びいきの元帝儒者の言を容れ、「天子七廟」に合わせるとか、各地にある皇帝廟をなくして都にある本部だけにするとか、漢オリジナルな廟制を出来る限り儒学の古典に沿ったものにした。


儒学が朝廷にも広まっていけば、元帝の時にやらずともいずれそうなったかもしれないが、いずれにせよ、それまで儒学を意識しなかった秦制にのっとり、あるいは独自の改良を加えていた漢の祭祀制度はここで大きな転換点を迎えたことになる。


その裏には、行政、政治面では単なる儒者では実効力のある政策を打ち出しにくく、かといって権謀術数においては石顕に太刀打ちできないため、儒者の大臣が自信を持って主張できる分野が祭祀制度だったという面もあっただろう。
大胆なことをしても石顕に妨害されにくい分野だったのかもしれない。

また、時代性を考慮すれば、祭祀こそ重要だと考えて現実の政治以上に優先したということかもしれない。

ともあれ、当時の儒者はこの面では後世に誇れる仕事をしたと言えるかもしれない。
祭祀をそこまで重大に受け取らない現代人からすれば、どうでもいいようなことに労力を割いて肝心な仕事をしていないようにも思えるが、当時の人々の感じ方はまた違うのだろう。


これまで見てきたように、成帝の時代以降、儒者は行政、官僚制度などにも踏み込んだ改革を主導していくことになるわけだが、元帝の時の廟制改革はその第一歩かもしれない。