京輔都尉の治所

前漢の郡にはそれぞれ都尉が一名以上置かれていた。
では、前漢の首都圏である三輔(京兆尹、左馮翊、右扶風)ではどうだったのか。
首都圏の太守に特別な名称が付いているように、都尉も特別扱いだったのか。

中尉、秦官、掌徼循京師。有兩丞・候・司馬・千人。武帝太初元年更名執金吾。屬官有中壘・寺互・武庫・都船四令丞。都船・武庫有三丞、中壘兩尉。又式道左右中候・候丞及左右京輔都尉・尉丞兵卒皆屬焉。初、寺互屬少府、中屬主爵、後屬中尉。
(『漢書』百官公卿表上、中尉)

中尉、後の執金吾の属官に「左右京輔都尉」という官がある。
これが三輔の都尉なのである。
執金吾所属であるという点に注目。

高陵。左輔都尉治。莽曰千春。
(『漢書』地理志上、左馮翊)

郿。成國渠首受渭、東北至上林入蒙籠渠。右輔都尉治。
(『漢書』地理志上、右扶風)

三輔の都尉は京輔都尉、左輔都尉、右輔都尉と分かれ、それぞれが京兆尹、左馮翊、右扶風を分担していたようである。
上に引用したように左輔都尉は高陵県、右輔都尉は郿県に役所があった。


では京輔都尉は?と思って『漢書』地理志を見ても載っていない。
しかし不明なのでも役所が無いわけでもなく、ちゃんと伝わっている。

京輔都尉治華陰
(『三輔黄図』巻一、三輔治所)

師古曰「趙廣漢也。三輔郡皆有都尉、如諸郡。左輔都尉治高陵、右輔都尉治郿、京輔都尉治華陰灌北。」
(『漢書』宣帝紀、「京輔都尉廣漢」に対する注)

というわけで、華陰県のあたりに置かれていた。
華陰県というと弘農楊氏の本拠地の県なので「あれ?弘農郡じゃないの?」と思ってしまうが、前漢時代では華陰県は京兆尹に属しているのだ。