いわゆる三国志の時代の曹操。その一族で将であった人物に曹洪というのがいる。
彼は曹操の一族で将として活躍した曹仁、曹休あたりと比べるとちょっと地味、または性格的に難ありという印象を持つ人が多いと思うが、http://d.hatena.ne.jp/mujin/20090821/p1で指摘されてるように、曹操の覇業の初期を支えた人物であったと言える。
(彼を殺してしまおうという曹丕に対し、母である皇太后卞氏が「彼がいなかったら兗州、豫州近辺も我等のものではなかったのですよ」と叱責したエピソードもある。)
曹洪は家が曹操以上の大富豪であったことでも知られるが、もう一つ、ちょっと気になる点がある。
彼の族父、曹瑜。彼は衛将軍、列侯までなったそうだが、そもそもそれが魏でのことなのか漢でのことなのか分からない。他の記録が見つからないから。
族父なら曹洪より高齢の可能性が高いので、漢かもしれない。そうだとすると彼は漢の時代にあっては曹氏の中では三公になった曹嵩の次に出世した人物である。ただしそれらしい記録は『後漢書』には無いようである。(他のところにあるのだろうか)
彼の事績が曹仁などでなく曹洪の項目に付されているのは、曹瑜に血縁的に一番近いのが曹洪だったからではなかろうか。
また『三国志』注引『魏略』によれば曹洪の伯父曹鼎は尚書令である。
曹洪は後漢における高官中の高官を何人も近親者に持っていた御曹司ということになる。
この点では曹操をも超えていたかもしれない。
(むしろ、曹操には「曹氏と血が繋がっていない」「宦官の(系統上)直系子孫」という家柄的な負い目があったのかもしれない)
彼の財力も一家から高官を複数輩出したことによって生まれたもの(を相続したもの)なのだろう。
個人的には、曹騰らの曹氏の本来の宗家は曹洪の家だったのではないか(曹騰は末っ子であり、兄が少なくとも三人いた)、だから高官を多数輩出し、財力も最大だったのではないか、と妄想している。