『魏略』と陳寿と身分の差

陳寿の『三国志』で伝わらない人物、事績等を補うものとして注釈で引用されている『魏略』。

この『魏略』には載っていて『三国志』では外されたり簡略化された人物というのはどういう人物なのだろうか。

例えば裴潜伝注には「魏略列傳以徐福、嚴幹、李義、張既、游楚、梁習、趙儼、裴潛、韓宣、黃朗十人共卷」とある。

徐福、嚴幹、李義、游楚、韓宣、黃朗は『三国志』には伝が無い。

徐福とはつまりあの徐庶。「単家」であったことは有名である。
嚴幹と李義は裴潜伝注にやはり「単家」と明記されている。
韓宣は特筆されていないが、勃海の韓氏は少なくとも大族ではなさそうだ。
黃朗も父は県の卒だったという。

つまり、游楚以外の無伝者のうち韓宣以外の4人は「単家」であったと記されているのだ。

「単家」が『三国志』に載るか載らないかが決まるファクターのうちでも重要なものではないかと思える。


また、『三国志』梁習伝注によると『魏略』には「苛吏伝」というものもあったという。
この「苛吏伝」(「酷吏伝」と同様のものだろう)自体が『三国志』には無い。「酷吏伝」といえば『史記』にも『漢書』にもあった伝統ある列伝だが。
そしてそこに引用される一文。

「(王)思與薛悌、郤嘉俱從微起」

王思、薛悌、郤嘉という「苛吏伝」に収められる人物は揃って「微」より出世した人物であった。
ここでも「微」=「単家」である。


これは推測でしかないが、陳寿の『三国志』は『魏略』に収められる多くの人物から立伝者を選んだことだろう。
そのとき、その落選者は多くが「単家」「微」な出自の者たちであったのではないか。
あるいは、代々の名士、後の貴族層となるような「単家」ではない層から優先的に収録したというべきだろうか。