吉本の乱について

二十三年春正月、漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反、攻許、燒丞相長史王必營。必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。
(『三国志武帝紀)

いわゆる吉本の乱について、反乱の首謀者の吉本、耿紀、韋晃はいずれも官僚である。


そして司直とは「丞相司直」のことであり、丞相曹操直属の監察官である。もちろん曹操が信頼しない人物を置くような官ではないだろう。権力の大きさを考えれば、曹操が能力や忠誠を期待しての人事と考えられる。

また少府耿紀は丞相掾や侍中を務め、曹操からも一目おかれ、宿舎が隣の荀紣と付き合いがあったという人物である。
おそらく、侍中や少府への任官は献帝監視のための措置の一環であろう。耿紀は曹操に与してそれを実行できる人物と考えられていたのではないだろうか。

吉本の子である吉邈、吉穆は王必と友人付き合いをしていたという。彼らが反乱するとは王必も思わなかったのではなかろうか。


つまり、吉本の乱の首謀者らは実は曹操や王必たちに認められ、または懇意にしていた者達なのである。
(上に出ていない首謀者金禕にしても、父の金旋は曹操の命令下で働き武陵太守へ任命されていた)


献帝囲い込みのために高官を曹操シンパで固めたはずなのに、その身内が反乱したという構図なのである。
当時の曹操政権の持つある種の脆さ、危険性が見える気がする。

また、もし仮に王必らが反乱を鎮圧できず献帝の脱出を許してしまったとしたら、身内の反乱と皇帝に逃げられたという衝撃が曹操政権を大きく揺るがし大破壊をもたらしたであろうことは想像に難くない。